■一言
とても良くない兆候です
■本文
格好良いことばかりじゃないのは分かってる。テレビドラマや数多くの漫画のように、何でも良い方向ばかりに進んでゆくわけじゃない。足をかける度に、階段はことごとく崩れ去る。のぼったと思っていると周りの景色が変わっていないことに気付く。そう、そこは今までにいた場所となんら変わりない。
しかし、すべてが同じだというわけでもない。完全に同じなら、僕たちは進もうとした記憶を覚えていない。でも覚えているから、完全に同じわけではない。
例えば、たとえ大切な人がいなくなってしまったとしても悲しまないという考えがある。これは過ちなのだろうか、否か。
どちらをとっても正解といえなく、どちらをとっても不正解といえないなら、どちらでも良いはずだ。問題は、自分が納得出来るかどうか。
出来ない場合はどうしたら良いだろうか? 死ねば良いのだろうか? 憎しみの彼方へと旅立てば良いのだろうか? そんなこと、自分で決めればよいのに。
殺すことは出来ない。ならば、どうやって活劇を演じればよいのか。時代にそった様々な感情があるのに、それは殆ど考慮に入っていない。
すなわち、人一人。
私は人一人として作り上げることが出来ない。誰もが同じなのかは分からない。しかし、私は人一人を作れない。
例えば、殺す人がいたとする。その人はどうして殺すのか? その人はどうして罪に問われるのか? その人の『殺す』という感情をどう扱うべきなのか? それらすべては集団の中に埋もれている。決して個人を引き合いに出されることはない。
まるで悲しいことではないだろうか。私はそう思う。しかし、それだけではいけないとも思う。
人一人を考えることがどれほど大変なのか。人を扱うことがどれほど難しいだろうかと。モデル化という手法があるが、あれではまるでお話にならない。
過去、現在、周囲の状況、性格、気性、あこがれ、温もり。
そこに人がいれば、触ることが出来る。これは、事実だろうか? 目の前に人がいる。それは、本当に人なのか?
目も合わさず、会話もせず、それが鼓動を刻んでいることも分からず、それが歌うことは楽しいことだとは思わず、どうしろと。
どうしようも、ない。
いや、ある。可能性はまだある。自分が変わればよい。どうにか足掻いて、沈み込んでゆく地面から抜け出せればよい。
それまで……