■場所
国道254号線のどこかの歩道
■人物
おじさんとその子供(男の子)
■状況
日傘もなく、木陰もなく、暑い中を歩いている
■本文
アスファルトで舗装された長い道。どこまで続いているのか分からないそれは、降りそそぐ太陽の熱を蓄えて、遠くの景色をゆらゆらと揺らしている。
地平線の境界から限りなくわき出てくる鋼鉄の車も、まるで何かの意思にとらわれているかのように機械的に動き、ぶるんぶるんとエンジンを唸らす。
歩道橋も横断歩道もないような大通りは、夏の間は常にこのようだった。道の左右に展開される家や林や工場には活気がなく、錆び付いて使われなくなった自転車がいたるところに放置されている。コンクリートの隙間から生えてくる草だけは、自分の生命を保とうと必死だった。
暑さも一段と厳しい昼下がり。砂利と靴とのこすれあう音をさせながら、一組の親子が道を歩いてきた。二人は手を繋いでいるように見えるが、景色がぼやけているせいかそれとも二人の位置関係からか、どうも不明瞭である。
ただ、彼らが何も持たず、他に誰も引き連れていないということだけは明確に分かった。
唐突だが、景色というのは見た目の環境である。中心となる一つの塊があり、それを凝視することにより周りのものが背景になる。走っている新幹線を中心にすると、時速300キロで流れる森や川や橋が背景になる。
灼熱のアスファルトの上を歩いている親子に関しては、これが当てはまりそうもなかった。彼らを見る、凝視する。すると、周りのものは景色として機能するのか。いや、しない。彼らを見ても何も変わらない。周りの景色は動かず、揺らいだまま全体の位置関係を維持する。本来なら流れているはずの車さえ、流れていることが当たり前となり、彼らの周りの背景としての役割を果たさない。
それはとても異常な光景だった。