2008年3月2日


場所

未体験さんまの部屋

人物

未体験さんまと麻木悠

状況

久しぶりに二人で長電話をした

一言

一通の長電話により、最近の自分が『死んでいた』ことを自覚した。ありがとう、悠。

一言その二

今回の一文は自らのために書きます。今回と次回に限り、文章がかなり乱れています。主語述語は問題ないと思いますが、話の流れとか完全に無視。書いた人しか理解できないかも知れません。

本文

真面目と不真面目の境目はどこに潜んでいるだろうか? 言われた事をきちんとすること? 勉強をきちんとすること? それとも、社会的に認められる仕事をすること?

もう一つ。やさしさの周波数とは、どの辺りの周波数だろうか? 犬を飼っている人間の辺り? 身障者の人を介護している人間の辺り? 老後の親を献身的に世話している人間の辺り? 他者の傷の痛みを理解している人間の辺り? それとも、世界にたった一体しかいない自分のためにもう一体のロボットを作って二体で慎ましく生活をするというお話を感動的に書いている人間の辺り?

以上二つの問は、昨日までの私(未体験さんま)には到底出来なかったであろうものである。なぜかと理由を訊かれるなら、お答えしましょうその疑問。

まず説明しなければならないのは、真面目と不真面目について。事実、世界にはその二つをきちんと取り決めた紙とか本とかは存在しないと思われる。なぜかといえば、必要がないから。そんな言葉遊びをしているなら、もっと生産的なことが出来るでしょう。だから必要がない。必要がないから真面目と不真面目の境界など本来定まっていない。

定まっていないならば問題にすることはないではないか? そう思う人――というかそういう誘導――はもっともだと思う。上で書いたように、そんな無意味な問を弄している間に文章でもゲームでも作ってれば良いじゃないかと思うのももっともだと思う。

しかし、世の中には様々な考え方があり、一般論とか統一論とか画一論だとか色々な言葉が証明しているように、物には様々な見方がある。左から見れば丸だとしても、上から見たら四角かも知れないし、前から見れば三角かも知れない。

ならば、別に『常識としては分かりきっていて考えるのも厭わしい概念』を、改めて口に出して――htmlドキュメントとして――世界に発信してみるのも良いんじゃないかと思うのですよ。

もちろん、これが何らかの成果をあげなくとも、私はいっこうに構わない。たとえ様々な人に批判されようともいっこうに構わない。

※構わない……ここでは、『批判されても怖気づくことなく受け止める』の意

それってどういうことなのか? 弄するにも時間の無駄で、他者の批判的な反応すら構わない。それならこの発言は一体なんなのか?

――それすなわち、発言することに意味がある――

私はこういう風に考えた訳であります。発言することに意味がある。でもでも、これは決して、何でもかんでも発言すれば良いという訳ではありませんよ? 自分の考えたことで、これは言った方が良いと思った事を口にすれば良いのです。

そしてそれは、『うじうじして何も言わない』よりは遥かに素晴らしいことだと思うんです。たとえ他者に馬鹿にされるような考えだとしても、たとえ恨みや憎しみを買うような発言だとしても、自らの意見をきちんということに関しては何一つ嘘偽りの無い行動だと思うんです。

例外はもちろんあります。様々な立場があり、様々な信条の人間がいます。そんな人すべてに対して『意見を言うことは素晴らしいので皆さんもぜひ意見を言いましょー』と主張することは無理です。だって、意見を言うことが素晴らしいなどと、凡ての人が考えているはずがないですから。

さまざまな立場によって、意見の伝えやすさは異なります。なので、私は凡てに対して主張はしません。

しかし、私自身に対してだけは、私自身が主張したい。

『私の本来の姿は、いや、二年ほど昔の私の姿は、こういう感じではありませんでしたか? 意見があれば言って、きちんと他者と話し合うだけの意識がありませんでしたか? 大学生活に慣れてしまった今だからこそ、思い出してみてください』

世の中には非常に強い力というものがあります。これまで行ってきた業績やこれまでに培ってきた関係を利用して、自分の意見を押し通し、通らなければ不機嫌になるなど、凄まじい人だっていると思うんです。

そんな人たちを前にして、怖気づいていてはいけない。私という人間は、そういうふうに生きてゆくために生まれたわけではない。人として対話し、人として意見す。どんなときにも忘れることのないたった二つのことを抱いて生まれたのだ。

ゆっくりと一つのことに徹する。一番の障害は恐怖。壁を破壊することなく乗り越えてゆけ。

(やさしさの周波数についてはまた明日)