■一言
今回の一文も自らのために書きます。
■一言その二
前回と今回に限り、文章がかなり乱れています。主語述語は問題ないと思いますが、話の流れとか完全に無視。書いた人しか理解できないかも知れません。
■本文
次に説明しなければならないのは、やさしさの周波数について。これはもちろん、乙一著『さみしさの周波数』をもじったものであるが、実際にやさしさがどこにあるのかなど分からないと思う。
テレビドラマを観て、新聞の投稿欄を見て、バラエティ番組のホームビデオを観て、私たちは何を感じるのだろうか。
例えば、『浜辺で遊んでいる三歳くらいの子供に犬がじゃれ付いてきて、そのうえ波まで押し寄せてきたために子供が砂の上に転んでしまった。起き上がると、子供は自分の顔のすぐ近くにある犬の顔を見て――犬は子供を見守るように舌を出して待っている――、次いでビデオを回している親の方を見て――親は子供に立ち上がるようにと励ましている――、ゆっくりと泣き出してしまった』――こんなホームビデオとか。
例えば、題名は『人の優しさに触れて』で、内容は『先日、普段は利用しない駅に私が訪れた時の事です。数年前から腰を悪くしている私は、なるべく駅を利用しないように息子の車に乗せてもらって買い物を済ませていましたが、その日は運悪く息子の急用。最寄り駅にはエスカレーターやエレベーターなどが設置されておらず、ホームで前にした階段のなんと長いものと感じました。どうやら何分もかけて上らなければいけないのかと逡巡していると、肩に何かが触れる感触がしました。「階段のぼるの、手伝いましょうか?」振り向くと三十代くらいの女性の方が立っていました。私はまさかこのような人に声を掛けてもらえるとは思ってもおらず、咄嗟にでてしまった一言は「いえ、結構です」でした。しかし、それでもその方は「でも、とても大変そうです」とつぶやき、私の方を見たのです。もう平常心を取り戻していた私は、もちろんそのお言葉に甘えさせてもらうことにしました。階段を越えて電車に乗った瞬間、何かが途切れたのか知りませんが、私のほおに熱いしずくがこぼれてくるのが分かりました。今思い返してみれば、世間知らずだったのではないかと思うくらい、私は周りの人の温かさを無視してきたのかもしれません。今後は息子ばかりを頼るのではなく、一人で町を歩いたりして人の心に触れられるようになればいいなと思っています』――こんな感じの新聞投稿とか。
(こんなにまとまりのない――感情的な――投稿なんて新聞には掲載されませんがね、きっと)
世の中には様々な『感動』がはびこっています。『全米が感動した』などというお決まりのフレーズから始まり、『泣きゲー』等に代表される作品群を通過し、様々な小説の中に霧散してゆくコースを辿る頃には、すでに世界中の感動に触れているのではないかと錯覚するくらいに多くの物語を私たちは経験してしまいます。子供の頃から観ているスーパー戦隊シリーズやアニメ、親と一緒に観たホームドラマや刑事もの、たまに観るファンタジー映画に漫画原作の45分ドラマなどなど、テレビだけでも一体どれだけの物語が私たちを取り巻いているのでしょうか。それが小説やゲームにまで及ぶというのですからその数は計り知れないと思われます。
その中で、『人の優しさ』を扱っている物というのは結構多いんじゃないでしょうか。金八先生とか、ごくせんとかそうですよね。ごく当たり前に存在して然るべき正義と優しさを痛快に繊細に人々の動きや台詞に乗せて私たちにデリバリーする。そうして私たちは心の中にどこかしらなにかしら暖かくて切ない青春時代のような感情を抱いて布団の中でぬくもりながらまた明日も頑張ろうと思ったり思わなかったりする。
で、何が言いたいのかと言えば、そんな優しさという感情が支配している人の思考というのは、確かにその人自身の優しさという感情とリンクしている、ということです。
いきなり言いたいことだけ言っておさらばするのは胃に優しくない為、以下それの説明です。
優しさを感じるとき、私はどうしてそれが優しさだと判断するのか? それは恐らく、同じ事を自分がしたとすれば、それを優しいことだと自身でも判断するからだと思います。つまり、他者が転んだときに手を貸す行為を優しいと感じる人ならば、自分がされたときにも他者の手を貸す行為が優しいと感じるのではないか、ということです。
――国語力の無い私に許された時間は少ないので、色々省略してやっぱり言いたいことだけを言っておさらばします――
つい最近、私は他者の優しさには裏があるのではないかとばかり感じていました。例えば、親戚の人がお小遣いをくれる理由には諸説ありまして、
一、ただ単にくれる
二、私を愛しているからくれる
三、将来私が仕事に就いたときに数倍になって返ってくる事を期待して、というより殆ど予期して、そのための投資としてくれる
三の考えは病んでいると直ぐに判断できる考えではありません。そういうふうに考えたっていっこうに構わないはずです。
いや、世間的には三のように、将来数倍にして返すのが礼儀なのかもしれません。しかし、それは大人の勝手だと私は思っていました。
親戚の人がお小遣いをくれるたびに、また返す分が増えるのかと思うと、気が気では有りませんでした。もしそういう風に企てているなら私に小遣いなどくれずとも良いだろうと。
とまぁ、そんな感じに思う程度に私は病んでいました。
しかし、本当にそうでしょうか? 他者のやることなすこと凡てに裏があると考えるのはよいことでしょうか?
人には感じ方があり、人それぞれ異なっています。ある人には優しい行為だと捉えられても、他の人が同じように捉えるかどうかは分からないわけです。
(一つ、良い例。犬の散歩をしていると、同じく犬の散歩をしている近所のおじさんと会いました。その人はカバンからオヤツを取り出し、うちの犬に一つくれました。これだけ見れば良い話かもしれません。でも、実はおじさんは自分の犬にもえさをくれていました。結果二匹の犬にエサをあげたおじさんですが、その順番は、おじさんの犬→うちの犬、でした。ここから考え付くことは一つしかありません。おじさんはおじさんの犬に対し、お前の方が位が上なのだと教え込もうとした、です。ここまで見ると、果たしておじさんの行動は良いことなのでしょうか、嫌なことなのでしょうか?)
でも、いつもどこでもこれを意識しているなんて変です。人としてどうかと思うのです。
私はちょっと前までは常にそれを意識して生活していました。でも、二年前の私はきっとそうではなかった。他者の行動などに頭をのっとられることなく、きちんと自分の判断を使って生活することが出来ていた。
真意がどうであれ、他者の行動は他者の行動。それに惑わされることがあってはいけないと思う。気を遣った一言なのか、本音の一言なのか、それとも遊びの一言か、適当な一言なのか。
そんなのどうでも良い。一緒に生活をして、もしその人があまり本音を言わないようならあまり仲良くない証拠なのでしょう。本音で話し、互いに気の置けない関係などと表現できれば仲良くなってきたのでしょう。
無理して付き合う必要もなければ、誰とも付き合わなくて良いとも思わない。私は適切な人と適切な言葉を交わせるように頑張ると決めたはず。
そんな青春のはかない希望に支配された私は、きっとこれからもそういった青春の残り香に体を委ねて生きてゆくしかないのでしょう。死にそうになったらまた悠と話をすれば良い。
もし今の私が死んだなら、それはR/Rの終焉であると思っています。