2008年3月9日


一言

同じものは二つとしてないという論理を展開しています。同意者募集中ってのはきっと嘘なのです。

本文

全く同じ方法で製造された同じ製品を二つ用意する。それらに全く同じ圧力を加えてゆく。一定以上の圧力に達したとき、果たして二つの製品は全く同時に破壊されるのだろうか。

それは双子に対する様々な問題に似ている気がする。彼らは世界のどこかでつながっているとか通じ合っているとか言われるらしいが、それが完全な一致なのかどうかは甚だ疑問である。

誰もが知っているものとして、物質の最小構成要素である原子がある。その中には実はクオークと呼ばれるさらに小さいものが入っており(正確には入っているとは言わない気がする)、それらは素粒子と呼ばれる。素粒子(というか粒子)には二種類あり、一つ一つの区別がつくものと、つかないものとが存在する。

後者はつまり、たとえその素粒子を目の前に二つ用意したとしても(現実には不可能)、その二つを別々に考えることが出来ないということである。

それはとても不思議なことだ。人で考えると、二人の人間がいるとして、その二人を見分けることが出来ないことに相当する。また、その二人がどれだけはなれて存在していようとも、一瞬のうちに入れ替わることが出来るとも言える。

もちろん二つの存在の性質は同じだから、全く同じエネルギーを与えることによって二つの存在は全く同じ反応を見せる。

もしこれが真実だとしたら――いや、これは世界的に確実に支持されている、証明されているのであるが――、私たちを構成する情報の最小単位はこの『二つを区別出来ない存在』によって保持されていることになる。なぜなら、『二つを区別出来ない存在』は自分の種類と位置以外の情報を何一つ持ち合わせていないからだ。

個体としての識別が出来ないということは、そういうことである。パソコンのディスプレイを構成する最小単位はピクセル(液晶1ドット)であり、それら一つ一つは区別出来ない(位置と色以外は)が、それらが作り出す画面全体――すなわちイメージ――は多種多様な状態になるというようなことである。

しかし、本当にそうだろうか。素粒子の中にある『二つを区別出来ない存在』は、果たして本当に区別出来ない存在なのだろうか。

私がそれを数学的に科学的に証明するのはとても難しい。なぜなら頭が良くないからだ(勉強する意思が足りないからだとも言う)。だから疑問に思うことしかできない。

どうしてか直感的に私は思うのだ。区別出来ない存在がこの世に存在するのだろうか、と。

確かに、実験をすれば『二つを区別出来ない存在』は本当に区別出来ないと分かる。そのような結果が如実に現れるらしいのだ。世界を調べる科学は、何よりもその実験結果を重視し、理論が間違っていれば結果を優先してきた。アインシュタインによって運動方程式の新しい形が現れたように。

でも、こうは考えられないだろうか。世界を取り決めるいわば法則めいた代物を、どこかの誰かが制御している、と。

私たちに本当の事を知って欲しくないがために、本当は区別できるものを区別出来ないようにしている、と。

……全くもってばかばかしい話だと思う。自分でも何を言っているのか疑いたくなる。世界の素晴らしい人たちが何十年も研究していることに反論するだけの力が自分にあるとも思わない。

けれども、ここは――このHPは――れっきとした理論に基づいて物事を証明しなければいけない場所ではない。よって、いくらかの与太話なら許されるはずだと信ずる。

区別の出来ないもの。個々の意味が問われるのではなく、その位置と全体の数が問題となる集団。考えてみれば恐ろしいものである。私たち人間がそのうち区別の出来ないものになり、人という集団として生きてゆく結末を想像してみれば分かると思う。

私たちはそれぞれが個々として存在し、互いの取り替えることの出来ないものだ。昨日食べたものを変えることは出来ないし、悲しい過去を経験から消し去ることも出来ない。自分には歴史があり、経験があり、記憶があり、それらの結果としての人格がある。

それが、『二つを区別出来ない存在』には無いのだ。まるでない。二つを同じ箱の中に入れると、どっちがどっちだか分からなくなる。そして、どっちがどっちでも良いと計算される。

なにかおかしいとは思わないだろうか。もしかしたら、そこに何か大きな世界が広がっているかもしれない。