■場所
どこかのオフィス
■人物
会社員の加奈子とその上司である杉村
■状況
雨の降る中、憂鬱な風にしている加奈子に話しかける杉村
■本文
春になって間もない頃に降る雨は、こんなにも鬱陶しかっただろうかと加奈子は思った。昼が長くなり、それに対応して夕暮れの時間までもが長くなり、薄闇を感じている間が長いこの季節に、どうしてこうもじめじめと雨が降ってくるのだろうか。
書類を整理する手を止めて、加奈子は間近にあるコーヒーカップをとった。ひんやりとした感触はまるで雨の湿度に濡れているかのように加奈子の指にまとわり付いた。コーヒーを喉に入れると冷めた苦さがすとんと体にしみこんでゆく。
窓の外を見ると、薄く灰色に沈む家々の屋根がたくさんある。今は昼間だから私もここにいるけれど、夜になればあそこの家と同じような場所に帰ってゆく。それが面白くて加奈子は小さい笑みを零した。
「あれ、田中さんが窓見て笑ってら」
振り向くと、加奈子の上司である杉村が机に座っていた。彼は加奈子と少ししか歳が違わない上に実は高校では先輩後輩の仲だったりするが、加奈子は彼があまり好きではない。それは、例えば髪の毛の一部だけを薄青に染めているところとか、加奈子より身長の低いところとか、そういう類のほかの人からすればどうでも良いことが原因だったりするけれども。
加奈子は組んでいた足をといて、気に食わない上司に目だけで視線を向けた。
「やだなぁ、別にちょっかい出しに来たわけじゃないって」
そう言って杉村は手にしていたコーヒーカップを加奈子の机に置いた。
「……仕事中ですので」
杉村が動かないのを良いことに、加奈子は机の上の書類に目を落とした。しばらくして杉村が遠ざかる音を聞いて、加奈子はどこかで少しだけ後悔している自分を見つけて、腹立たしく思った。どうして私があの人の事を重く考えなければならないのだろうか。彼は私の上司であり昔には高校の先輩後輩の仲だったりもしたけれど、さっきみたいに適当に話しかけてくるような間柄ではなかったはずだ。
加奈子は再び自分のコーヒーカップを手にして顔をあげた。別段、仕事が滞っているわけでも加奈子がサボり癖のある社員であるわけではない。むしろ、加奈子は自分が働きすぎではないかと思うくらいに集中して仕事をしているつもりだ。
冷たいコーヒーを口にすると、やはり苦い味しかしなかった。
いつもどおり、きっかり一時間の残業が終わった後、加奈子は会社の玄関を出た。雨は止む気配を見せず、ときより少し強い風が吹いて加奈子の足をぬらした。