■場所
廃校舎
■人物
何かから逃げている女性一人
■状況
危機的な状況にあってどこか現実離れした一瞬
■本文
窓に映る自分の顔を見ていた。薄暗い外の景色に溶け込むように、私の濡れた目が暗く沈んでいた。
廊下には私の他に誰もいない。木で作られた床板は所々ささくれ立っていたが、それでもこの校舎はまだ現役で使われているのだという。等間隔につるされた電球の明りが、昼間には現れない暖かい停滞を孕んでいた。
空気の動かない空間だった。漂っているだけの思考。教室の前に一つずつ置かれている掃除用具入れが確固たる不動の証拠だった。触るときっと冷たいと思われる鉄の入れ物は、木で出来た廊下にあってしかるべき物のように思われた。
例えば、コンクリートで固められた一般の廊下に掃除用具入れが置いてあるのは不自然なのだ。方や錆びることのない石、方や錆びて朽ちゆく鉄の塊。二つのものがいがみ合って対立しているようにしか私には見えない。
それがどうだろう。こうして木の廊下に置かれている掃除用具入れのなんと優しそうなことか。茶色の壁と床に接して、ときより風によって揺れるくすんだガラス窓の隣で自分の領分を理解している鉄の塊は、自らに積もる小さな埃の一欠片にまで敬意を払っているように見える。
触ればきっと冷たいだろう鉄の入れ物は、しかしきっと軋んで音を立てるのだろう。これまでの歴史を物語る、か細いけれど力強い音を。
ふと意識を現実に集中させると、廊下の向こう側から誰かの足音が聞こえてきた。表現するのが難しいような、木と靴とが奏でる物理的な音。理由もなく、私にはその音が、プラスチックで出来た空の弁当箱を机の上から教室の床に落とす時に発生する音に似ていると思えた。
それでいて、私の頭はまるで別の事を考えていた。
よぎるのは懐かしさを含む幼少時代の私でも昔住んでいた家でもなく、中学校での思い出でもなく青春のはかない恋物語でもなかった。
よぎるのは、生命としての危機感だった。殺されるかもしれない。それ以前に、私は女であいつは男だという生物としてのごく単純な理に恐怖を覚える。どうしてこんな場所に来てしまったのかという随分昔に考えていたように感じられる後悔を押しとどめ、私は足を動かすことに神経を集中させる。
優しかった掃除用具入れとはお別れをしないといけない。分かっている。たとえそれが人でなく鉄の塊だとしても、誰も味方のいない今の私にとっては良かったのだ。昔の懐かしさを少しだけでも思い出させてくれる環境と物体があれば心が安らいだのだ。
もう、足が動かないと主張する。意識が遅れ、行動に追いつこうとする。が、どうしても意識は行動に追いつけない。
気がはやる。息があがっているのが今になって分かった。木で出来た床に手を付く。しかし、実際は膝から倒れて顔を直接ぶつける格好で倒れこんでしまった。
痛い。けど、逃げなければならない。そう思う私はきっと、まだ死ぬとかいうことに現実が感じられないのだと思う。木の臭いがする。
やがて手を付いて立ち上がると、私は振り返る事をせずに一気に走り出した。
後ろから自分を眺める感じ。幾つもの教室を過ぎて、曲がり角があった。角に位置している最後の教室のドアに手を触れ、走る自分の勢いを殺す。しかしスピードはそのままで私は角を曲がり視界を確認する。渡り廊下。