雪の鍵


 ただ、背中を見つめていた。
 遅くなったから駅まで送ってってよ、最近ひったくりとか多いらしいしと、そう言って雪の中連れ出したのがそんなに気に食わなかったのか。いや、でもそう言わないと自分の女も送っていけない駄目人間じゃないか。会話もなく一人で勝手に先を歩いて。ここでもし自分がいなくなったらどうするつもりなんだ。……いや、きっと探さずにそのまま帰るだろう。この男は。
「ねぇ、お祝いちょーだいよ。」
 小走りして近付いて、軽く体当たりする。
「もう私大学生だよ?大人なのー。なんかリッチなお祝い、してよ。社会人。」
「でも俺ビンボーだもん。」
 全く、間接的に言っても駄目なタイプなのに、直接的でもやっぱり駄目だってのはどういう事だろう。
「じゃあ、手ーつなごうよ。」
「おーおー、大人なはつげーん。」
 手袋をはめた手を伸ばしたその格好を、莫迦にする様に横目で見、そのまままた歩き出した。むかつく。
 小走りして、今度は飛びかかった。
「いいの!からかうなよバーカ。」
 むりやり腕を組むが、今したいのは腕組みじゃなくて手をつなぐ事だ。ん!と言ってまた手を差し出す。
「やだよ。俺手袋ないもん。手ー出したくない。」
「私のかたっぽ貸してあげるからさー。」
 そう言って手袋をはずして渡そうとする。何でそんなに手をつなぐ事にこだわるのか。いや、もうそれはこだわりではなくだだの意地だ。
「あー?お前のが俺の手にはまる訳ないだろ。」
 それをこの男は。ちょっとつないでやるだけで、きっとほだされるのに。
「大体何で駅まで行かなきゃならんのだ。お前は片道だけでいいけど、俺は往復だぞ。雪ん中。」
「うるさいなー、駅からもっと近いアパートにしなかったのが悪いんじゃん。」
 腕をほどいて、立ち止まってみる。手袋をはずした右手に雪がかかって、とける。後をついてきていないと気付いているはずなのに、案の定立ち止まりも振り返りもしない。こういう時にしびれを切らすのは自分の方だ。いや、違う。きっと違う。自分が動かなければ、そのまま置いていかれる事を知っているから、だから動かなくちゃいけないんだ。
 むしゃくしゃする気持ちを乗せ、背中に向かって手袋を投げる。赤い毛糸の手袋はへらりと落ちた。手袋が雪を吸っている間も、何も変わる事はない。
 いつもと同じ、こういう時に動くのは自分の方。
「かいしょーなし。」
 運悪く半分とけた雪の上に落ちて、ぬれた手袋をまたはめる気にはならず、左の手袋を犠牲にしてくるんでポケットにしまった。手が、冷たい。
 そしてまた、背中を見つめ続けた。
 遅れてやってきた自分を駅で待つ彼は、遅いという一言もなく、…言われたら言われたで怒るんだろうけど…、そのまま行き違いに、じゃ、という声をかけて帰っていく。これで気がすんだろ?と暗にそう言われた様でむっとするが、それでもどうして、帰っていく背中を見送っているんだろう、自分は。
 嫌になって睨み付けると、不意に彼が振り返る。まずいと慌てて表情を変えてももう遅い。けれど、相手はそんな事は別に気にしないで、こちらに向かって何かを投げてきた。
「……あげる。」
 かじかんだ手に取り逃しそうになるのを捕まえるとそれは、熱い。……熱い、見覚えのある鍵。
 そういえば、手は家からポケットの中だった。
「……かいしょーなし。」
 家に帰ったら荷物をまとめよう。宅急便で送ろう。……着払いで。



……寒い。



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