そこには誰かの故郷があった。

 力は破壊の為にあるのか。
 破壊された物はすでに形をとどめず、思いの中のものも汚されて……。
 それは、二度と戻らないであろう。

   河梁吟 −かりょうぎん−

「旦那、俺ァいた方がいいですかぃ?」
 彼らは、今日はめずらしく十一時近くまで起きていた。何かの予感があったのだろう。忠実な空光は旦那が眠るまで待とうとしたが、ふと、気弱ともとれる事を言った。
「いてもいなくても、変わらないとは思いますがね。……いたくないんですかぃ?」
「……俺は………。」
 何かを言おうとして、空光は言葉をつまらせた。
「眠かったらもう寝て構やしませんですよ。……少し、疲れておられるんならねェ。」
「……ヘえ、じゃあちょっと飛んできやす。飛び方を、忘れねェ様に。」
 空光はそう告げ、ゆっくりと二階へ上がって行った。
「とりあえずお休みなさい、空光。」
 普段より一時間ほど遅いが、旦那にまだ寝る気配はない。かといって特に何かをしている訳でもない。ただ品物を見つめ、そっとなでている。眠いのか、彼はふとぼんやりし、そしてため息をついた。
「旦那。」
 不意に空光が戻ってきて声をかける。
「お茶、淹れときやした。」
 お盆に急須と湯飲みを乗せ、空光は帳場の上に置いた。
「……ありがとう、空光。」
「ちょっと、感傷的になってるみてェです。」
 髪をかき上げる様に頭を押さえ、かすかに、自虐的にほほえみながら空光はそう言った。
「もう秋、ですからね……。」
 今夜は少し風が強かった。また台風が近付いているのかもしれない。戸がかたかたと鳴り、かすかに風が隙間から入ってくる。

「今晩は。ちょいとここを開けてくれ。」
 ふと入り口を叩く音がして、高くてどこか奇妙な声が聞こえてきた。風ではない。旦那は戸に近付くとそれを引いて開ける。
「いらっしゃい。」
 旦那の目の前に客はいない。少し視線を落とすとその者が見えた。
「まァ、中にお入り下さいな。」
 そう言うとその者はしっぽを支えに立つのをやめ、四つ足でちょこちょこと旦那の後を追う。そして椅子を勧められるとその者はひょいとその上に乗り、それから前足を帳場の上に置いた。
「お茶ァ飲まれますかぃ?」
「いぃや、結構。わしはそんな物飲みやしないヨ。」
 鼻をつまんだ子供の様な声だ。それは、一匹の川獺であった。
「そうですね。……貴方がこんな所にいるなんて……河童殿。」
「ふむゥ、その呼び方は好きではないなァ、見間違えられてるんだから。」
 川獺はつんとそっぽを向く。ここで想像してみて欲しい。平たい頭、一メートルほどの身長、濡れた体で先ほどみたいにしっぽを支えにひょいと川縁で立っている。これが月明かりの下だったら川獺が、河童と見間違えられても仕方がないだろう。旦那はかすかに興味を見せる。
「他にきちんとした河童がいると?」
「見た事はないな。」
 川獺は人間の手の様に、その前足を振った。
「川獺というのは、今じゃ四国の方にしかいないと思っていましたが……。」
「儂はかなり年を取っているからな。多少の事では死にやしないサ。」
「……何か、あったと……?」
 じわりと、旦那がここに来た理由を聞き出してきた。川獺は黙って下を向き、それから旦那の方を見つめた。
「儂が長年すんでいた所が、間もなく水に沈むんだ。」
「……ダム、ですね。」
 最近、新聞やテレビのニュースでもやっている。森の、緑の、自然のダムを壊して人工のダムを造る。考えれば莫迦な事だが、国はそれを一生懸命やっている。
「いつだったか…、台風が来た時にえらく山が削られてね、土やら大木やら巻き込んでの、そりゃぁ凄い大洪水が起こったんだ。……だから、いると。でもねェ、その洪水の原因は何だと思う。」
 目の辺りにしわを寄せ、川獺はかすかに遠くを見つめる。
「戦後の復興の為の無茶な大量伐採だヨ。もう緑に戻っているがな。だから今はどんな雨が降ろうと洪水は起こらねェ。大洪水なんてどんなにさかのぼってもあの時一回こっきりだ。皆それはよく解っているだろうな。工事を持ち込んでいる人間も、な。もちろん昔からそこにいた…仲間でもあった人間は反対したサ。しかし…何分、年寄りが多くて、ね。」
 川獺は疲れた様にしみじみとそう言った。旦那は自分でもよく解っている。声はかけられない。
「かつてに比べてずいぶん人も減ったし、若いのも、年寄りのも、住み慣れた所より住みやすい所の方が魅力的なんかナ。」
「……そう思うのは、離れる前ですよ。故郷を思うのは故郷を離れた者だけです。そして時が経てば経つほど、故郷への念は強くなる……そういうものです。」
「……土も木もはぎ取って、ダムは近付いてきた。一つの川に、いくつ造れば気がすむんだろナ。うちの所もでかい機械が運ばれ、何か動き始めたなと思って………。」
 口の中が乾くのか、川獺はもぐもぐとさせる。顔ではなく、雰囲気に表情が見て取れ、旦那は切なくなる。その川獺の失った故郷が、故郷が失われていく様がまざまざと見せられた気になっていたからだ。
「気が付いたら、着工しとりましたワ。」
 川獺は自虐的に笑う。もちろんそんな気がするだけで動物は決して笑ってはいない。だがそう感じ取れた。そしてふと調子を変えて旦那に尋ねる。
「ありゃ結局、何の為に造られるんだ?」
「ダム自体を必要としているのは、誰もいないんじゃないですかね。欲しいのは大きな公共事業ですよ。……それでうるおう人間がいる。」
 旦那は隠し事をせずに正直に話す。それは今問題になっている事だ。どんなに一生懸命反対しても、結局押し切られ、作業は進んでしまう。……腐っていた。
「な、莫迦にしてる。工事という物は……もっと違ったはずだ。」
 川獺が叱咤しったすると、旦那は無言でうなずいた。川獺は、持って行き場のない怒りに愕然としている様だ。
「……そんな理由だったとはね。最後に、嫌な話を聞いちまった。」
「アタシは、嘘をつくより良かったと思ってます。」
 旦那がはっきりそう言うと、川獺もしっかりとうなずき、気丈をふるまった。
「……まァな、本当の事を言ってくれて有り難う。」
「ふ、蟻が十なら芋虫ァ二十はたち。……ってね。」
 旦那は揚げ足を取る様に茶化して笑うと、何を思ったのかおもむろに座り直し、真っ直ぐ川獺を見つめる。
「……それで、故郷を……失って、どうしてここへ?」
「儂を、剥製はくせいにして欲しいんだ。」
 川獺がそう言うと、旦那は瞳で驚き、そしてため息をついた。
「最後、なんて言ったと思ったら……。ずいぶんまた、思い切った事を……。」
河伯かはくとして、多分最後の河伯として、永遠を望むンだ。どんな形でも。」
 押し進める様に、きっぱりと川獺はそう言った。決心は硬そうだ。
「これは道を作るのとは違う。首を絞めて呼吸を止めるのとおんなじだ。木を引き抜かれ、土をえぐられて、獣や山の生き物は均衡を失い、山は死ぬ。流れは淀み、水は濁り、魚や沢蟹、川の生き物も住処をなくして川は殺される。浄化作用はなくなり、へどろが海へと行き着く。……どうなる?何を望んでいる。」
「………………。」
 もう、何も言えなかった。これ以上何か言うのは自分にとっても、相手にとっても酷だ。
「儂にはもう目的がない。」
「……死にに来たと。」
 旦那がそう確かめると、河伯の小さな瞳は何かに光った。
「ああ、共に生きる道などない。それを断ち切ったのは人間だ。」
 旦那は河伯のそのセリフを複雑な思いで受け止める。
「アタシもかつては人間でした。……今も人間だと思ってます。」
「……それは別だろう。人間には二種類の人間がいる。昔の人間と、今の人間と。」
 ふとため息をつき、仮泊は何処か遠くを見る。
「今の人間は何でも出来る。自らを育んでくれた母親をそうやって殺す事も。何だって……。」
 河伯がそう言うと、無性に切なくなってそれからの会話は続ける事が出来なかった。旦那は、手を組んで下を向き、考え込む様にしばらくじっと動かなかった。だが不意に顔を上げ、手を膝に当てて旦那は河伯を見た。
「……よござんしょ。」
 そしてもう一度きちんと口を開いた。
「そこまで決心が固いのなら。」
 旦那が揺るぎない瞳でそう言うと、河伯は旦那にぽつりと尋ねた。
「最後に聞きたいんだが…お前さんはこれから先に、何か望んでいる事はあるかい?」
「……多分、河伯殿。……貴方と同じでしょう。」
 何となくそう思い、旦那はそう言うが、河伯は莫迦にするかの様にそっぽを向く。
「儂はもう疲れたよ。何も望みやしないさ。」
 そうは言ったが心の中には美しい故郷こきょうの姿があった。それがけがされる所を見たくないから、死にたいという思いもあった。今までその森と、その川と、一緒にあったのだ。河伯はゆっくりと目を閉じる。
 旦那は、河伯に向かって深々と頭を下げた。
「今まで本当に、お疲れ様で、御座いました……。」
 河伯は瞳を開け、彼らはしばらく目を合わせていた。遠くで翼の音が聞こえる。
 そうだ、最期は歌で送ってやろう。

 一陣の風が戸を鳴らした。


短い割に、内輪受けが良かったです。
河梁吟とは送別の詩の事です。



戻る