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13・望んでくれるのなら、そうなりたいと思う。 そこを、逃げ場にするつもりは少しあったかもしれない。 いや、違う。そこは休み場だ。自分は傷付いてもただじっと癒えるのを待つしかない野生動物なのだ。粗野で粗暴なむき出しの心でもって傷付け、それ故に傷付いた。いつかを待って、休ませてもらっている。手当てを望んでいる訳じゃない。けれど、人がくったくなく笑ってくれるのがただ嬉しい。……だから。 いらっしゃいと言う、彼の姿を見るとたまらなく安堵する。けれど今日はほっとする気持ちとは別に、知らない気配に足が勝手にとまった。 「おっ、この娘が噂の彼女かぃ！」 突然の野太い声に自分が一体どんな反応をしたのか。きっと物凄く変な動きだっただろう。けれどテーブル席にいる三人の中年男達はその姿にも、やあ、可愛い可愛いと声をかけてきて、さらさはどうにもとまどう。すると冬生がこっち、と手招きしてさらさをいつものカウンター席に、自分の方に呼び寄せた。 「ごめんね、あの人達、普段この時間は寄らないんだけど。」 さらさは少しぽかんとしたまま無言でこっくりとうなずく。ここの喫茶店は二階にある設計業務の人や近くの企業の人達のモーニング、休憩、ランチでもってなっていると聞いていた。春樹が言っていた店を任される様になったというのは半分ほど嘘で、人の滅多に来ない、けれど閉める訳にもいかない夕方の時間を冬生が一人でもてあましていたというだけだった。実際さらさはこれまでこの時間帯に他の客を見た事がなかったし、店長すらパチンコへ行っているとかで、まだ一度もお目にかかった事がない。 「野次馬根性だよ！」 「 しかも嬉しそうに、と続ける男達のうち二人は同じ作業着を着ていて、その色が染みついているみたいによく日に焼けていた。もう一人も現場の物ではなさそうだが作業着で、いわゆる中年の体型をしていたが別にみっともないと思うほどではなく、どちらかというと貫禄があるといった感じだった。ちょっと煩わしいところもあるけれど、きっといい上司、頼れる上司と慕われているんだろう。 「もー！……ごめんね、あの人ら何か、そういう人だからさ。……何だかなァ。」 さらさはどう言ったらいいのか解らず、困った様にただひたすら苦笑する。それぞれ好き勝手な事を言っている後ろの男達は、今日はさらさが来た事で妙なテンションになっているのだがさらさはそれを知らない。冬生もそんな風になってしまった彼らをどうする事も出来ずにいた。 「なあ？やっぱりそうだった。俺の正解！絶対女の子だと思ったもん。」 そう言って、作業着が違う一人がひょこひょこと近付いてさらさの隣に座り、不意にその肩を抱く。 「しかも目が高い！こんなに可愛い子。」 「シバさん！年頃のお嬢さんにそんなひっつかない！」 けれどさらさは始終しているその笑顔にも、肩を抱いたその手にも別にいやらしさを感じなかった。実際、手は肩をぽんぽんと軽く叩いただけですでにそこにはない。冬生にとがめられたから手を離した、という訳でもない気配。彼らは本当は、さらさの事はどうでもいいんだろう。ただ単に冬生を可愛がって、からかっているだけだ。きっと自分の息子みたいに思っている。さらさは遠慮ではなく別にいいよとなだめたが、冬生は声をとがらせて駄目、と切り捨てた。そしてぶっつりとした表情のまま、さっき手の置かれたさらさの肩をぱたぱたとはらう。そんな冬生を目線だけで見ながら、昔から声を荒らげる事が少なかった彼が、とさらさは少しぽかんとすると、オヤジ達はにやっと笑って冬生をからかった。 ああ、彼女かと思われてるのかな……？ それが単なるからかいなのか、本当にそう思っているのか、そう感じるとさらさは妙に居心地悪くてそわそわした。嘘でも間違いじゃないんだから妹だと言えばいいのに。それとももう幼なじみだと説明してあるんだろうか。男達はどういう関係なのか、名前は何かとさらさには聞いてこない。 ……妹なのに。 自分でそう思う事にした。冬生は、春樹とそういうところが同じで気がきかない。 ………春樹。 何故、こうやって不意に思い出してしまう。冬生とは兄弟だから。いや、それだけじゃない。例え冬生といなくても、何かの端々でも。家に帰れば筅がいる。 ―――大丈夫。 昨日よりは痛くない。昨日より、遠い。……昨日より。 「――じゃこれ、彼女にプリンでも食べさせてあげてよ。」 はた、と気付いてさらさは隣にいた男を振り仰ぐと、どんなプリンを食べさせるつもりなのか、彼は一万円札をカウンターに置いていた。ぎょっとしたさらさが制止する前に冬生はそれを取り上げるといいよ、この人社長さんだからと変に真顔で言ってエプロンにしまう。そして彼らは銘々にそろそろ、を口にして席を立つ。最初の騒ぎと比べて何てあっさりしているんだろう。元々時間があったのかもしれない。けれど出ていく最後の最後までしゃべっている彼らはまるで嵐だった。 「……ねぇ、よかったの？」 「いいの。さっきのコーヒー代込みだし。」 ……にしたってずいぶん高いんじゃあ、とさらさが思うと、非難する風な視線が伝わったのか、冬生はなだめる様にふ、と笑ってさらさの頭をぽんぽんと叩いた。 「これは何ていうか……まあ、ご祝儀みたいなもんだよ。あの人、そういう人なの。さらさと遊びに行ってこいって意味だよ。ついでにそれを報告しろってのもあるけどね。」 さらさにはいまいちピンとこなかったが、そういうものなのかもしれない、と思う事にした。オトナにはオトナの色んな付き合い方があるんだろう。彼らが一般的だとは思えなかったが、それぞれ個人にはそれぞれ個人の色んな付き合い方があるんだろう。……きっと。 「しわ。」 唐突に言われて冬生の方を見上げると、拇印を押す様に眉間に親指を当てられ、それからぐりぐりと押されてさらさはたまらず笑った。本気で驚いて笑った為、ずいぶんみっともない笑い声だったが気にはならなかった。 「何処行く？」 「え、急に言われても……。」 寒気がした訳でもないのに、背中から何かがはってくるみたいにむずむずした。意識しているつもりはないのに、さっきのそわそわと同じ気持ちになる。 この男は気がきかない。 「何処でも、何でも。別に今すぐ行くって訳じゃないんだし、さらさが好きなとこ選んでいいよ。俺はついてくだけだし。」 そうは言われても何だか急く様な、せっつく様な。何が、という疑問がある訳ではないが思わず何故、と問うてしまいそうだ。―――気持ちがせわしない。 「冬生ちゃん。」 「―――好きだよ。」 体をはう、むずむずする気持ちがぴたんとやんだ。春樹と同じで気のきかない、変に生真面目な彼がこんな顔をして冗談を言うはずがない。……こんな、顔で。真剣だけれど気が張っていなくて、まるで表情だけがすとんと抜けた様な。嫌でも――別に嫌な訳じゃないが、嫌でも本当だと解る。 「どうして……って、聞いちゃいけない？」 「いけなくないよ。」 そう言って冬生はふっと笑い、さらさはたまらずほっとした。 「そうだねェ……。食べる前にちゃんと手をふくトコとか、スプーン、フォークの使い方上手なトコとか、ご飯残さないトコも好きだなー。」 「……何それ。」 好きだと言われた事に不満はないが、そんな事が理由じゃちょっとがっかりだ。 「昔のさらさについては色々言えるけど、今は…俺の前で食べてばっかじゃん。」 「冬生ちゃん、言い方超失礼。」 やっぱりこの目の前の男は冬生だ。今更、人を好きになる気持ちにロマンティックなものを期待なんかしないけれど、緊張もしなくていいけれど……間抜けだ。 「俺はさ、すっごく鈍くて。告白されて、断った後に気付くっていうか……ろくに話もした事ない、全然気にもとめてなかったはずの子と彼氏らしい男がいちゃいちゃ歩いてるの見てさ、ああ、好きだったんだなーって、ぼんやり苦しむ事もあったりして。失恋しなきゃ恋に気付けないのって、後から想うのって辛くてさ、だからもう気付いたらすぐ告白しようって。」 ああ、冬生だ、とさらさは思った。間抜けで不器用な。いわゆる〝友人止まり〟のタイプの。 いい人だと、優しい人だと言われて、そういう自分を求められているのをよく知っていて、そんな自分を手放す事が出来なくて。きっと、いくつも恋を手放してきたんだろう。……優しい人だから。 「多分、ずっと好きだった。」 「……ずっと？」 「…何か、ロリコンみたいだな。」 そう言って照れながら苦笑すると、冬生はきまりが悪そうに首元をかいてさりげなく視線をそらした。 「……あー、は、恥ずかしっ。何か照れが…後からっ……。う、うわー。」 「ふ、冬生ちゃん！大丈夫？」 まるでアニメか何かを見ているみたいに、冬生は首から順に顔を真っ赤にさせてずるりと崩れ落ちた。あわてたさらさが席を立ってカウンター内をのぞくと、冬生は極めつけという風に息切れ状態にまでなっている。 「は、恥ずかしくて死にそうって…こういう事なのかな。」 「それ…違うと思う。」 狭いカウンター内にしゃがみ込んですっぽりと収まっている冬生は、呼吸を整えながら少しすねた様にがっかりした様にかっこ悪いなあとつぶやいた。さらさはほんのり笑ってそれを否定しない。否定はしないけれど、肯定もしない。 「ええと、さ。伝えるのは伝えたけど、別に答えなくてもいいから。気にされると気まずいし。……だからさ、さらさの事は普通に好きだし……普通にってのも変か。うん、でもまあこうやって、ちょくちょく来てよ？」 カウンターの、その間からのぞかれた冬生の瞳はまるで子犬みたいで。筅に思われているのとは全然違う。自分が望まれていると、そう思うと、どうしようもなく胸が熱くなった。 「……さらさ？」 「……冬生ちゃん、すっごいダサい！」 にっこり笑ってさらさがそう言い放ってやると冬生はぶっと吹き出して困った様に更にへこむ。自分が酷い事を言っているんだろうとは解っていたが、両手で顔を押さえてああもう、と声にならない声をもらす冬生はこんなにも可愛い。 「……まあ、さらさが好きなのは春樹みたいな奴だしなー。」 つぶやかれたその言葉にぎょっとするのは今度はさらさの番だった。 「っ！…冬生ちゃん嘘つき！鋭いじゃん！」 「えぇ！今好きな人も春樹なの!?」 さらさの言葉に思わず冬生が立ち上がると、ぽかんと互いを見合った。 「………あれ？」 首をかしげる冬生を前に、さらさは思わず心の中で何だこれ、とつぶやいた。 ……何なんだろう。本当に。これは。 勝手に喉の奥がつぶれて、痛む。何故、とはこの数日――筅が春樹に告白したというあの日から、ずっと胸にある言葉だ。疑問を問う訳でもなく、答えを求める訳でもなく、ただもどかしくて何故―――と。 「ねぇ、冬生ちゃん。……もし、自分の弟がホモだったらどうする？どう、思う？」 気が付いた時には、誰にも言わないでおこうと思った事をぽつりともらしていた。 「え！それってどっちの事!?」 「冬生ちゃん……。」 「え？……あれ？」 さらさはもう一度冬生の名前を呼ぶ。自分はずるい。たまらなく――ずるい。何かに困ったり辛くなったりするなんて思ってもみなかった。そうなった時は、そうでなくても必ず誰かが助けてくれるものだと思っていた。当然のごとく。幼い頃、冬生が自分にしてくれた特別扱いの様な、あるいは筅がしてきた様な。周りが甘やかしてくれるものだと、ずっと甘えていた。 今もきっと……この人に、好きだと言ってくれるこの人に。 そう思うと苦しくて、もう幾度目なのか解らない涙がこぼれた。 「さらさ？――さらさ？」 「自分が、ばらばらになりそう。もう、ばらばらだよ……。」 下手に問いつめる様な事はせず、かばう様に背中に回された手が大きく骨張っていて、そしてうんと優しくて、言葉が止まらない。 「春樹が筅を好きだって、……他の誰でもない筅だって、自分でなくて筅だって、どうしてって。筅で良かったって、筅だから許せないって。――悔しくて、苦しくて。でも、筅は私の思いが解るから、隠さなくちゃいけなくて。どこにも吐き出せなくて。」 そこにあったのは、明らかな奢り。 「許せない。筅が、許せないの……！でもこの気持ちに気付かれたら、きっと筅は死んじゃうから。思いを隠す事を覚えて、ずるくなって。もっとずるくなって。いちいち私の思いを読み取る筅がうっとうしくて、顔色をうかがうあの顔にいらいらして、そのせいで春樹だってあんな目で見るし、一挙一動が気になって、気に入らなくって！――消えてしまえって！」 筅でなく自分であるならそれは当然で、絶対に逆はないと。 「――でも、筅がホントに死んだら、私は絶対泣く。悲しくて、泣く。」 なのに、とさらさは泣いた。勝手に振れる感情の振り子についていけなくて、さらさは自分が狂っているんじゃないかと思った。そう思う冷静に見つめる自分がいるのに、その冷静な自分はただ見ているだけで何もしない。 涙は止まらない。 「……さらさ。」 労働を知っている少し荒れた指がそれをすくい、ぬれてほほに張り付いた髪を耳にかけて頭のてっぺんからすっと髪をとかす。 「―――大丈夫。」 優しい言葉が、ずっと欲しかった言葉が上から振ってきた。 プライドばかり高い自分の性格をよく知る彼は、カウンターをはさんだまま自分の肩へさらさの頭をぐい、と寄せる。 「うん……、自分の感情なんて、自分が何思ってるかなんていちいち紙に書き出す訳でもなし、そんなばっちり解る人なんかいないし、とめる事が出来る人もいないって。それが気持ちだし。俺もそうだし、さらさは変じゃない。」 おだやかに、笑う様な声がつん、としみる。 「それに筅がさらさの思いを知ったら死んじゃうって、大丈夫だよ。自分が死んだらさらさが悲しい思いをするって事も、筅は解ってると思うから。ね、そこが一番大事なところだろ？俺だって小っちゃい頃、怒りに任せて春樹の事、つみきの角で思いっ切り殴った事あるけど、殺してやるーなんて思ってないし、思ったとしてもこの野郎、殺してやりたいって衝動的に、瞬間的に思うだけ。だって、家族だもん。」 冬生は猫にやるみたいにさらさの髪をすき続ける。彼の肩からした匂いは、ずっと一人暮らしをしているせいだろう、春樹の家の匂いとは違っていて。体の感触も、力も強くて男だけれど、まだ兄だ。思わずこぼれる、うわごとの様なため息と共にみっともなく鼻がたれてきて、それが付かない様にさらさは頭をよじったが、冬生はそれを逃がさず逆にぎゅっと押さえ付けた。そして何を気にしているんだというみたいな、ぷっと吹き出した笑いが聞こえた気がして、さらさはいつか筅としたやり取りを思い出し、体の芯がじん、と引きつれた。 「ね？遠慮せずに感情をぶつけられるから、バッ！て、そういう事を思ったり、そういう事が出来るだけでさ。本当に憎悪っていうの？その気持ちはないと思う。」 そうだ。憎んだ事なんて一度もないと、あの時自分は言ったのだ。思わず声をついて出た言葉を、その意味を今やっと理解出来て、どうしようもなく切なくなった。 バカにするな。私の片割れだ。今までずっと一緒にいて、例え憎んでいたとしても、いきなりいなくなったら……。 悲しくて、泣く、と心の中でつぶやいた。そしてまたどっと涙があふれる。 「……筅が、大事でしょ？」 「うん。」 「筅が、死んだら悲しいよね？」 うん、と二度目の返事はかなり情けない声になった。 「でもやっぱりこの野郎って思ったり。」 おどける様に蒸し返されて、さらさはぶっと吹き出してうん、とまた返事をする。 「仕方ないよ。それが普通。大丈夫。当り前だよ。悩むさらさはいい子だよ。思いを吐き出したからこれから楽になる。」 「うん。」 ずっと鼻をすすって、は、と息をつくと、さらさはまた身をよじった。今度は解放してくれて、さらさは冬生の肩から離れると彼と顔を合わせる。それがどんなみっともない顔でも平気だ。彼は正面から全てを受け止めてくれる。 けれどそれは長い間続かず、さらさの唇は勝手に震え、また声をつまらせて下を向く。胸にこごる思いがそのまま吐き出る様に、涙は出る。 「いいよ。泣きな？」 冬生はさらさの頭をそっと寄せると髪の間に指を差し入れ、再びそれをすいた。 ……どうして優しい。こんな事されては駄目になるのに。 「――ごめん、ね。」 「うん？」 冬生の声は明るくて、これから言う、言わなくちゃいけない言葉を思うとさらさは胸がつまり、握った手が汗ばんだ。けれど、彼には本当を言わなくてはいけない。 「私、……冬生ちゃんの事利用してるかもしれないよ？」 語尾は裏返るみたいに声がおかしくなった。 「んうー？ああ、そんなの。俺だって弱ってるさらさに付け込んでるだけかもしれないじゃん？」 お互い様、と軽く返されてさらさは拍子抜けした。こんな鈍くてとろくさい男にそんな事が出来るのか。いや、どっちでも構わない。さらさに必要だったのは彼がしてくれた、ただその中身だ。 「私は、そうだったとしても嬉しい、と思う。」 「俺だって苦しんでるのを話してくれて、嬉しい。」 下を向いている為、表情は解らないがきっとにっこりと音が付くくらいきれいに彼は笑っているんだろう。冬生はどこまでも大人で、さらさは心がふるえた。 彼は、カウンターを越えてこなかった。 まるで線の様なこの焦げ茶のテーブルは、けじめに見えた。もしこの一線を越えて抱きすくめられていたら、さらさは本当に駄目になっていただろう。付け込むつもりならそうするはずだ。何も思わずにそうしなかったのなら純粋に嬉しい。もしも計算してやった事だったらもっと嬉しいとさらさは思った。 春樹といい、冬生ちゃんといい、何でこう鈍いくせに人の心をつかむのが上手いんだろう……。 さらさはほんの少し顔を上げ、それから目線だけ冬生の方に動かすと、冬生は親指でつい、とぬれたまつげをぬぐってきた。 自分を理解してくれる、優しい人。 「大丈夫だから。」 この人を好きになれば、きっと幸せになれるんだろう。 「いい子だよ。」 望んでくれるのなら、そうなりたいと思う。 |