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12・降ってしまった雨はやむのを待つだけで、他には何も出来ない。 不機嫌…なんだろうか。 そんな事を思いながら筅はさらさの方をちら、と見やる。彼女は今日ケーキバイキングに行った帰り、事故による寿司詰めの電車に乗って確かに吐きそうだとはぼやいた。夕飯を拒否して、それでも母の文句の下、味噌汁だけはすすって。……何故か、妙な視線を感じる。彼女からもやもやした感情が伝わってくる。けれど自分はそっくりそのまま彼女と同じなのに、多少の疲労…がある気がする？……だけで気分の悪さはない。 「さらさだけが具合悪いなんて、めずらしい。」 そう言った母の言葉に素直にうなずいたのも、バレるという心配よりもただ不思議だったからだ。 距離があったから…とか？ そうだ、今まではずっと側にいて、だから感情が伝わりやすかった。離れていたからその分伝わらなかったんだと、きっとそうに違いないと思って筅はご飯を飲み込んだ。 ただ、それだけなんだ……。結局は今までと、変わらない。 「筅、ちょっと…。」 二階に上がっていくところでさらさは筅をそう呼び止めて、部屋に招いた。何だろうと不安がるよりも前に、高揚感。さらさの部屋に入るのはずいぶん久しぶりだった。 ――女の子の、部屋。 何が置いているという訳ではないけれど華やかな、可憐な部屋。さらさの性格上、部屋の中はシンプルなのだがそれでも花の様な印象を受けた。ふわりと、わたがしの様な甘い匂いがする様で筅の鼓動はとく、と鳴った。 「何、きょろきょろしてるの。」 「ご――めん。」 注意されたからか、筅のほほがじっとりと赤らんだ。さらさは、パレットの様な曲線を描いた小さなテーブルの前に筅を座るよううながして、自分もそこへ相対する。 「―――私のせいに、しないでくれない？」 さらさの第一声はそれだった。 「……え？」 「あんたが、春樹とどうなろうと……知った事じゃない。私のせいにしないで。」 さらさの声はひどく冷静で、どんな鋭利な刃物でもかなわないくらいにすっぱりと筅を切り付けた。……もちろんそれは筅の一方的に感じた思いだったが。 「……私は、辛いよ。あんた達が二人で一緒にいるの、想像するだけで苦しいけど、よそよそしいのを見ると無性にイライラするのも本当。」 グラウンドから、たまたま見てしまった、見せ付ける様だと感じたあの光景。 「……あんた達が一緒に登下校するなんて悔しくてたまらないって思うけど、どうしてそうしてしまわないんだろうって呆れてるのも本当。……私のせいに、しないで。」 自分が見ていないところでは、あんな風に笑い合ってるくせに。 「……私の目の前でされちゃかなわないって思ってるし、勝手にすればって切って捨ててしまってる。けど、あんたがそのまんまだったら私も動けない。私は、どうしようもないの。」 「さらさ………。」 「何で……！」 そう言ってさらさの声はつまった。 「何で、私に気を使わせるの……! !」 テーブルがかたかたと鳴ったのは彼女の声のせいか、彼女が震えたせいか、それとも自分の気のせいだろうか。思わずため息をつきそうになった時、その前にさらさがぱっと顔を上げて筅はそのタイミングを失った。 「……ごめん、こんな風に怒鳴りたいとか、責めたいとかいう訳じゃない。」 「………ううん、僕も悪い。」 「そうね、あんたも悪い。……私も好きにするから、あんたも、好きにしたらいい。……結局、中途半端にかまわれたり気にかけられるのが一番腹立つから。…もう、私に関わらないでくれる？」 突き放される。 「………うん、解った。」 それ以外に、何が言えるだろう。 「……じゃ、出てって。」 そう言ってさらさは笑い、すっとドアを指さした。―――嫌だ。やめて。引きちぎられる。お願いだから、拒まないで。 「僕は……！」 体が跳ねるみたいに反応して言葉がこぼれる。 「僕は、春樹を失ってもさらさを失いたくない。それだけはずっと―――。」 「失うって何？」 さえぎる風に言ったさらさの声は、ただ静かだった。 「何を、失うの？」 そういえば、何だろうと筅は思わずぽかんとする。〝失う〟という言葉はあまりにも簡単な、ただの言葉でしかなく、例えにすらならない。 「私、失恋って結局何を失った事になるんだろうって、思った。それが両思いの時なら相手だって解るけれど、片思いの時は何を失う事になるの？」 それは恋心、じゃない。さらさは、まだ……。 「元々、何を得ていたの？」 それが、形でも目に見えないものでも。 「私が、欲しいの？」 筅の体がまたはねる。そう、なのかもしれない。春樹を捨てても、さらさが……？ 「……春樹の事、もう手に入れたと思ってるから、あんたは平気な顔でそんな事言えるんじゃないの？」 さらさはほほをひきつらせる風にわずかに笑う。謝ってしまいたいがここで謝る事を彼女はよく思わないだろう。けれど、そうしたら何も言えない。否定も、出来なかった。 「ほら、出てってよ。」 出ていく以外に、彼女の望みを叶える以外に、他には何も………。 さらさの部屋を出て、後ろ手にドアを閉める。例え彼女の顔が見えなくても振り返ってしまえばまた心が揺らぐ。我慢が出来なくなる。堰を切った様に涙が、あふれ出た。そして逃げる様に自分の部屋に戻ってベッドに突っ伏した。 いつまで、こんな思いをするんだろう。……一生、こんな思いをするんだろうか。 こんな自分は嫌だ。こんな自分は、嫌だ。あんな事、本気で思った訳じゃない。自分が傷付きたいんじゃない。誰かを傷付けたい訳じゃない。どうして――せめて何故自分の心くらい思い通りに出来ない。 ――楽しそうな二人。春樹の隣に、筅。 「あんたはいっつも抱え込む。」 抱え込みすぎだ、と昔さらさは筅に言った事がある。そのセリフに筅は視線をふわふわとさまよわせてからあいまいに笑った。いつもの表情。いつもの仕草。 ――自分と目を合わせれば、筅は機嫌をうかがう様に。 さらさは、いつもみたいに莫迦にする風に笑う。 抱え込みすぎると言っても、さらさはその抱え込んだものをどうにかしてやろうなんて一つも思わなかった。いくらかよこせと言う事もなかったし、慰める事も相談してやる事もそれが、何なのかという事も聞かなかった。ただ、関係ないと嘲笑するばかりで。 ――筅がこちらを向けば、後ろから春樹が見る。 だから、罰が当ったんだ……。 なんて、莫迦莫迦しい。春樹が筅を選ぶのなんか、これじゃあ当然じゃないか。 さらさは静かに涙を流す。 今度は私が笑われる番なんだ……！ ――気付いてしまった、自分に向けられた忌々しげな視線。 抱え込んでいるつもりはない。出来るなら手放してしまいたい。 それが、出来ない。 望んでなんかいないのに。望んだ結末じゃなくても、こんなのは望んだ自分じゃない。右にあるものを左に移す事すらどうして出来ない。 無力なんだとは思いたくない。自分が頑固でわがままなのも解っているけれど、それが自分の、真実全てだとは思いたくない。 けれどどうしたって優しくなんか出来るはずない……。 友達と出かけて、ケーキを食べて笑い合っても、寿司詰めの電車の中で何も考えられなくっても、他の事で頭をいっぱいにしても。 筅。春樹。 「……たす…けて………。」 心から、そう思う。けれど、〝本当〟に〝思って〟しまえばそれは筅に感付かれてしまう。いつのまにか、こうやって心に膜を張る様な事も覚えてしまった。けれどそれは内側から強く破れそうだ。破れてしまえば、筅がその場所を見付けるかもしれない。 私の心を食いに来る、いやらしい化け物……！ そう思うのも情けなくてまた、泣ける。膜の内側でぐねぐねと、心がねじれて裏返って暴れ狂う。 あんな事、言うつもりじゃなかった。 けれどあれが、本心。 絶対に許せない。 でもそれは、筅のせいじゃない。春樹のせいじゃない。 けれど絶対、私のせいでもない。 突き放さないとまた筅は心を食いにくる。感付かれる。 そんな事、私が望んでない様に筅だって望んだ事じゃないはず。 頭で解っていても、めざわり。 わざとじゃなくても許せない。 わざとだからこそ余計に腹立たしい。 憎い。 死んでしまえばいい！ そんな事、本心じゃない！思ってない！ 許して……。 助けて………。 助けが来ない事を、さらさは知っている。自分は手を差し伸ばさなかったくせに、誰かの手がこんなにも欲しい。 けれど、〝本当〟に〝思う〟事は出来ない。押さえ込んで、内側でただ血を流すしかない。 何が悪いの。私が悪くないと思って、それがどうしていけない……！ 全部本当だから。……だからこんなにも苦しい。 「………う！……く。」 急に、突き上げられる様な吐き気がした。トイレにへは間に合うはずもなく、筅はとっさにゴミ箱をつかんでさっき食べたばかりの夕飯を戻す。少し、床にこぼしてしまった。フローリングの方でよかったと、そう冷静に思う心とは別に体は異物を排出する様に嘔吐を繰り返す。胃は空気の抜けたボールをみたいにべこべこと収縮して、まるまった背中が勝手に痙攣する。落ち着いたかと思ったらまた波の様に。すえた匂いが、たまらなく気持ち悪い。 体が勝手に吐いてからようやく落ち着くと、筅は肩で息をし、ゴミ箱に顔を向けたまま手探りでティッシュを探した。額にはじっとりと脂汗。全てを吐き出しきってもどこも、何もすっきりとはしなかった。口の周りをティッシュで拭いつつ、床にこぼれた嘔吐物を思うと更に気が萎える。先に、とにかく先に口をゆすぎたい。 ……さらさ、だろうか。 隣の様子を探っても解らない。けれど今日具合が悪かったのはさらさの方だ。今まで離れていた為に伝わらなくて、その分一気にきたのかもしれない。匂いが気持ち悪いが、ゴミ箱の袋の口を縛るのは床にこぼれたのを何とかしてからだ。口に残る感触に眉を寄せつつ筅はとにかく部屋を出た。 ……みっともないな………。 自分の吐いた物を片付けるのは何だかひどく惨めで情けない事に思えた。内容がさっき食べたばかりの夕飯だという事もある。この匂いは小さい頃から時々、嫌でも経験するのにどうして慣れないんだろう。目の前の出来事を、何でもないとやり過ごすみたいにどこか呆然とすると、先ほどのやり取りがよみがえってきた。 ―――何を失うの？ そもそも、何を失いたくないんだろう。いや、決まっている。それはさらさだ。けれどそう思った瞬間、何故か春樹に抱きしめられた感触が戻ってくる。 ―――お前は？ 駄目だ、やめろと思って筅は首を振る。そして何が、という事もなくただ違う、これは間違いだと思う。 ……欲しいから。欲しいから、手に入れたと勝手に思っているから、だからきっと失うという言葉が出てくるんだろう。 「僕は―――――……。」 ただ、こいねがう。許して欲しいと。許して、欲しいと。それだけだ。それ以外は何も望まない。ただひたすら懺悔の様に。何でもする。何でも耐える。だから許して欲しい、と。 「僕、は…………。」 結局、欲張りなだけなんだろうか。 降ってしまった雨はやむのを待つだけで、他には何も出来ない。 |