----Cry for the Moon.

 ゆるゆると東の方に伸びる雲と、白み始めた空を飾る真っ白の月。
 さざめく風を耳に聞きながら、その者は衣に空気をはらませかけてゆく。その足の速さも尋常のものではないと思えたが、それよりも格好だ。長い服はまだ薄寒い夜明け前の時間にいいとしても、まるで絵本に出てくる妖精の様な、あるいは中世を題材にした映画に出てくる様なフード。灰鼠色の長いそれは異質な風の様にはためいていた。中の服もフードに違う事なく古めかしい形で、手の中には美しい角杯。少し行けばふさわしいほどに古い街並みもあるが、木の代わりに電柱が並び、馬車の代わりに自動車を備えたコンクリート製の家が建つ現代のそれに、その姿はずいぶんと儀式めいている。
 黄昏時に外を出るな、旅人のフードの中を見るな、オーク、トネリコ、サンザシにいたずらをするな、月に誘われて迂闊に夜出歩くな、妖精の名前を呼ぶな。それは昔から伝えられた約束事。それは古い物語の世界。まだ、太陽は昇らない。
 そしてその者は一軒の家にすべり込む。その怪しげな者が入るにしては近代的な家だったが、それを疑問に思う者は誰もいない。彼は、誰にも見付かる事なく自分の目的を達成したのだ。

 家の中では、二人の人間が彼を待ちかまえている。一人は銀の髪と金の瞳が美しい女。もう一人は顔の左半分をハニーブラウンの髪で隠した青年。互いに黙ったまま目線だけ交わすと、入ってきたその者は女の方に近付き、うやうやしく角杯を渡す。その中身は彼が取ってきた朝露だ。そして彼はフードを落として女の側に控える様に立った。
「…………………。」
 杯を受け取った女は顔を隠した青年の方におもむろに向き直し、細い指先で彼を跪かせると金の双眸にひた、と写す。軽く笑んで愛しそうに顔にかかる髪を耳にかけてやると、とろける様な同じ金の瞳が現われた。その金の瞳は入ってきた者、フードを落としたところで黒髪の男だと解る、彼の右目にも備わっていた。
 そして女は青年の口元に角杯をあてて中の水を含ませてやり、彼が飲み下したところにイチイの葉をくわえさせ、そのままその手は彼の瞳に持っていき閉じさせてやる。眉間に唇を落とすと、備えてあった小瓶に小指を浸して額にルーンを書き、呪歌ガルドルを詠う。金を隠す左の瞼の方にまた薬を塗って、唇を寄せて同じ様にまじないを。
 ―――その儀式を、一人の子供が見ていた。

「……小さいの。」
 くすりと笑いを含んだ声で儀式を終えたらしい女はそうつぶやく。妖精の儀式に居合わせた時の対処法は色々伝わっているが、その中から子供はじっと動かずやり過ごそうとしたらしい。今も名前を呼ばれたが、知らないふりをして息を潜めている様だった。
「いいよ、ハロウィンさん。大丈夫だからこっちおいで?」
 かたくなに身を隠す子供に対し、黒髪の男はゆったりと落ち着いた風に呼びかける。本当は優しい声をかけられても応えてはならないのだが、子供は彼に信頼があったし、それに気付いてはいなかったが、子供は逆らえない秘密の部分を握られていた。首だけ動かして顔をのぞかせると、まるで髪を結んで垂らした様な、頭の横から生えている毛に覆われた長い耳がたらりと垂れた。そして、とことこと真っ直ぐ呼んだ黒髪の男の方に向かうと、彼は満足げににっこりと笑う。
「ああ、もう日の出だね。君や僕達には平気だろうけど、一応ね。」
 ふと、太陽の気配を感じて黒髪の男がカーテンを閉じる。人ならざるものが日の出の光に当ってはいけないというのも伝統だ。そしていつの間にか儀式を受けていた青年も金の瞳をいつもの様に髪で閉ざしていた。
「トイレに起きたの?まだ早いし、寝た方がいいんじゃない?」
 その青年から声をかけられたが、子供は無言で首を振る。気持ちが眠れそうになかった。気づかって言ってくれたのを邪険にされた気になったのも事実で、すがり付くみたいに黒髪の男の服を握りしめる。庇う様に髪をなでた、その彼は、青年の兄だった。
「……何、してたのだ?」
「おまじない。夏至ミッドサマーだからね。君達はケルト暦の四大祭りがメインだろうけど…やらない?」
 目線を近くして尋ねられたが、子供は何の事だかさっぱり解らないといった風情で首をかしげ、事もなげに首を振る。その幼いしぐさに笑みを一つこぼすと、兄は銀の髪の女の方に子供をそっと押しやった。
「大おばあ様、お疲れでしょう。あたたかいお茶を入れてきますね。」
 それを弟が手伝いに追いかけると、女の腕の中の子供ががち、とこわばるのが見えて思わず笑みがこぼれる。ハロウィン、古い言葉でいうとサワーンの夜に現れた、長い耳のその子供は、自分をうさぎのモンスターだと名乗っていた。
 そして、自分達三人の本質は狼であった。



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