----Cry for the Moon.

 ノックをして、返事がない。こういう時は誰もいないか、それとも家の中に子供しかいない時だ。
 家に大人がいない時は絶対に訪問者に応えるな。電話にも出るな。子供しかいないのを狙って、子供を狙って家に押し入る奴はいくらでもいるからと、幼い頃に家でも学校でもさんざん言われた事だ。留守を狙って入ってくる奴より、子供がいる事を知っていて入ってくる奴の方がうんと恐ろしいと。
 もう一度ノックをして、僕だけど、と一言告げると今度はこと、と気配が近付いて扉が開いた。
「弟さん!」
 ひょこんと顔をのぞかせる子供を見て、にこりとほほえんでやる。本当は知り合いだからって簡単に扉を開けてはいけない。けれどまあ、この家に限って自分は間違いなく信用のおける人物だ。一緒に住んではいないけれど、家族なのだから。
「お兄さんは……何処だかでアート展とか言ってたっけ。」
「うん。七時までに戻らなかったらご飯食べてって。冷蔵庫にグラタンがあるのだ。」
 そう言った子供の招きで中に入ると、気配が一つ足りない。
―――チップは?」
「んと、飽きたって。」
 それを聞くと思わず、はあ、と肩をすくめてしまう。ハロウィンの日に来たこの子供を追う様にやってきた従兄のチップだと名乗る少年は、最初の頃こそ狼相手におとなしかったものの、だんだんと好き勝手度が増している。彼を預かっているのは自分だったが、仕事で家を空ける時は家で仕事をする兄の所へ預けるのが決まりで。その兄が出かけたのをいい事に揚々と出ていったのだろう。まあ、今日は残っていたまじないと一族の祖なる女の匂いに過敏に反応していたし、そこにいろというのは酷だったかもしれないが……。
 それにミッドサマーだしね。そわそわしてるのかもしれない。
 季節の変わり目には精霊が騒ぐ。せっかく来た彼女を家にとどめておく事が出来なかったのもそういう理由だ。戻ったあちらでは、古めかしい宴が行われているだろう。
 とりあえずお茶でも入れようと弟は勝手知ったるキッチンに立つ。そしてそこで手荷物を置くと、目ざとい子供は瞳を輝かせてそわそわし始めた。
「ケーキ?」
「残念、シュークリーム。」
「食べたい!……ご飯まで時間あるし、手も洗うのだ!駄目?」
 子供が体を上下させてねだると、長い耳がはたはたと揺れた。少し考える様な素振りを見せて時計を見ると、午後五時ちょっと過ぎ。本当は用意されていたおやつがあって、もうそれを食べたんだろうけど。
 うーん……。
 顎に手を当てて首をひねり、目の端だけでちらりとその子供を見ると、大きな目をさらに見開いて返事を待っている。それは自分にとって悪い結論でないだろうという莫迦みたいに純粋な確信。
―――じゃあ、一つだけ。だけど夕飯のデザートはなしだよ?」
「うん!」
 甘いなあと思いつつも、ぎりぎりの妥協。願い通りの答えに喜ぶと、その子供は手を洗ってくると言って文字通り跳ねて行った。
 お兄さんに拾われたのは幸か不幸か―――。まあ、多分幸の部類に入るだろう、と信じたい……。
 あの子は嬉しそうだし、楽しそうだし、兄があの子を傷付けたりする事は絶対にないはずだからと思う。名前を付けて自分のものにしたのは行き過ぎだと思うけれど。
 名前に気を付けろとも、よく言われたなァ。
 彼は心の中でわざとそれから沈黙すると、箱の中からシュークリームを二つ取り出し、残りを入れようと冷蔵庫を開けて、少し躊躇する。そこにはいつもはない鍋が堂々と占領していたからだ。中身は大豆と野菜の―――冷蔵庫にあった事から冷製なのだろう―――スープ。一さじすくって味見をするとトマトの香りが広がり、マメだなと軽く笑う。グラタン皿は、四つあった。
 兄は優しい。兄に拾われたのは、きっと幸だろう。
「手、洗った!」
 きれいに洗ったか尋ねると、子供は自分の目の前に小さな手を広げてくるくる回してから、きゅっと眉間にしわを寄せて鼻に近付け、匂いを確かめてからにこっと笑ってうなずいた。その愛らしい動作に軽く笑うと、彼は提案をする。
「じゃあテーブルをきれいにして?今お茶を入れるから、入れ終ったら食べよう?」
 はい、といったいい返事。元々素直な子供だけれど、こういう時が一番、声も動きも素直だった。準備を終えると幸せそうな顔でシュークリームにかぶりつき、あっという間に平らげる。
「美味しかったー!」
 嬉しそうにお腹をさすりつつ体を揺らす仕草ににまた笑いがもれた。そして口に笑みを作ったままカップを口に運ぶ動作に、子供が不思議そうな目を向ける。
「弟さん、髪の毛切らないの?」
 きょとん、とまるい二つの瞳が見つめた。確かに縛りも切りもしないこの長い髪は、子供にとって不思議だろう。髪は顔の左半分を覆う状態で、今もうっとうしそうに口の部分だけすくい上げて紅茶を飲んでいるのだから。
―――ねえ、今日の朝……。」
 確か、その髪を上げてはいなかったか?子供の目が正しければ今朝の儀式は彼の為のものだった様に、思う。
「何?」
 それは明らかにうながす為ではなく制止。朝の時と同じだ。
「……痛いの?」
 子供なりに精一杯解釈して尋ねるが、それに対してそう、とも違うとも言えなかった。曖昧にほほえんでみせると、子供も曖昧に、それを追求してはいけない事だと受け止めた様で、不満と、不安と申し訳なさが混じった妙な表情を見せた。
 あ、とつぶやきそうになり、しまった、と思う。今自分がした表情はおそらく幼い頃、自分が一番嫌に思ったそれだ。いつの間にか、ずるくごまかす大人の側になってしまった自分に情けなくなり、苦く自嘲した。
 こんな風に受け止めさせてはいけない。こんな顔をさせてはいけない。
「……痛くはないけど、―――辛い。」
「辛い?」
 子供はこと、と首をかしげる。
「うん。……ハロウィンさんも、お兄さんの言う事をちゃんと聞いてないと駄目だよ?」
「お兄さんに何かされたの?」
 ふっと表情がこわばって真剣になった子供に、今度はきちんとほほえんでみせる。
「違うよ。お兄さんの言う事を聞かなかったから……。」
 こぼれる様に口から言葉が落ちた。
 あふれる。止まらぬ。深く、思い出される。

 ―――欲しかったのは月じゃない。なかったから、だから欲しかっただけだった。



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