----Cry for the Moon. |
それから兄は、ずいぶんと変わった。 それは自分も変わったところが多かったせいもあるだろう。そして見えてきた部分も多かった。兄はあちこちに麻痺が残る自分を必要以上に気づかったが、反発して振りほどく事はない。兄は視力の悪い義眼の為に眼鏡をする事になったのだが、月≠ノレンズがかかるのを嫌がって、鼻で止める そうだ、この人は堪えが利かない。 引っ越しを決めたのは、自分が大分よくなってウルフベオルトにお墨付きをもらったすぐ後だった。まあ、決めたのは兄なのだが。元々うちの家は血族の末端で離れたところに暮らしているんだし、親類とは年に数えるほどしか会わないじゃないか、と言っても彼には理由にならないらしい。とにかく、もうただ二人でやっていきたいって思ってるんだろう。 月≠フ影響で、狼の本質が早く自立をしたいと言うんだと、自分のわがままをもっともらしく、かく語る兄にはみっともない様な、恥ずかしい様な、くすぐったい様な……仕方のない人だな、とほんのり困る様に笑う気持ちになった。兄の、持ち前の優れた行動力と英知で親類の使っていた空き家を借り、宣言してほとんどすぐに場所を移る事になる。実家からは電車とバスで一時間ばかり。月に一度は帰る約束をして……とはいえ、まだ義務教育の子供なのによく許したなとも思った。 優れているのも、こういうところが考えものだな……。 炊事、洗濯、掃除も完璧にこなす兄を見ているとつくづくそう感じる。二人だけの生活はそんな事でまあ上手くいっていた。キスやらハグやら人が見てどう思われるか……もちろん公衆の面前でそうされる事をよしとしなかったけれど……という兄の過度なスキンシップは目をつぶる…というか諦める事にして。 ただ兄が、弟である自分の為という生き方しかしない事だけが気になった。それはもう子供じみた欲求ではない。愛情と名を借りた執着。兄はまた自分で勝手に決めて 二人でいる事に不満はないし、むしろ心地がいい。……けれど、これははよくない。友人も作らず、不特定多数の恋人がいて、人を小莫迦にして、心を許し笑顔を向けるのは血族だけ、執着するのは弟にだけ。一生それで生きていこうと兄はしている。 「――――駄目だ。」 「……もう決めたんだよ。校長先生とも話を付けたし、父さん母さんにも言った。」 予想通り、険しく形相を変えた兄に肩をすくめ、笑い含みで答えてやる。 「九月から、寮制の そう言い切ると、さっと悲しげな表情に変えた兄につかみかかられ、軽く体をすくわれて引き倒された。抵抗も、顔色を変える事もせずに上になった兄を見つめる。ずっと黙ってはきたが、思うところが沢山、ある。 「……僕が、嫌になった?」 「違うよ。」 「じゃあ、どうしてだい?何が不満?どこが悪い?……ねえ……。」 そうじゃない、と言いつつ、そういうところだ、と思う。そしてきっと言っても直らないだろうし、言っても解らないだろうとも。泣き伏すみたいに首元に顔を埋めてきた兄の後ろ髪をすいてやりながら、深く、ため息をついた。二人だけで生きるのは、あまりにも上手くいきすぎる。 「僕はもう、十六だよ?手を引かれて後ろを歩く子供じゃないんだ。この生活が始まってからずっと……ずっと、こういう暮らしをし続けようとは思ってなかった。」 「……嫌だ。」 「お兄さん。」 突く様に強く引きはがして彼の前に座り直し、じっと見据えた。 「僕の為に生きる事を、自分の生きる為にしないでよ。」 にっこりとほほえんでそう言うと、兄もまた、複雑そうだったけれど何故か笑った。 「……僕に相談しなかったのは、無理矢理にでも止めると思ったから?」 「え……?うん……。」 正面切って言われると申し訳ない気持ちになって途惑った。視線を泳がせると頬に手が当てられて、それは耳の縁をそっと添う。 「まあ…反対はしただろうけどね、……止められはしないと思ってるよ。」 耳たぶをやわらかくもまれ、すまない気持ちをやり過ごすみたいにその感触に身を任せて目を伏せた。 「お前がいなくちゃ駄目とは言わない。……けれど、お前がいなくても大丈夫だとは絶対に言わない。」 「……うん。」 「で?」 うん?と顔を上げるとそれからどうするのかと将来を聞かれる。兄にそう言う事を話すのは初めてで、何だか頬が熱くなった。 「獣医学の方に……進もうかなって。獣医になりたいんだ。力も…活かせるし。」 「そっか。」 「うん……。」 頑張れ、と言われる事はなかったが、力一杯抱きしめられて胸がつまる。決めたのは自分なのに、手放すのが惜しいと思った。―――僕達は、奇妙だ。 そして それから一年―――二年……。年は経ったが兄は相変わらずわがままで、人の言う事を聞かなくて、だらしなく甘えてくる。鋭く優れている癖に変なところで不器用なんだから、と思ってやるとどこか愛嬌があった。 まあ、そういう性質だからって幼いうさぎを拾うとはね……。幸せそうなのはいいんだけど……。 ふ、とため息をつくと自分はずいぶん毒されているなと感じ、苦々しく……けれどどうしても目元は笑ってしまう……笑みをかみしめた。 「どうかしたのだ?」 「…ん、何でもない。とにかく、お兄さんの言う事はちゃんと聞こうね。悪い様には絶対しないはずだから。」 もし、何かあった場合は命をかけても必ず止めると、それが自分の役割だと確信めいた思い。そんな日はきっと来ないだろうけど。 「―――ただいまァ。」 「あ。」 子供と思わず声が合わさり、お互いに顔を見てふっと笑うと子供は椅子からぽんと跳ねて、軽い足音を立てかけていく。 「お帰りなさい!」 「ただいま。」 後を追いかけて玄関に行くと、ちょうど兄が子供を抱き上げているところだった。抱え上げるその途中で目が合う。 「…お帰りなさい。」 「ただいま。」 そして兄は笑みを浮かべたまま抱えた子供の手を取り、移動しながらゆらゆらと揺らして手遊びを始める。 「チップは?」 「んー…まだ帰ってこないの。」 「じゃあ夕飯どうしようねェ。」 その言葉にぎくっと反応した子供を見て、口の端がくっとつり上がった。 「ふふ、ちょっと前にシュークリーム食べたから。」 言うと兄は、面白くなさそうにええーともらす。 「いいじゃない。しばらくチップ待ってようよ。」 そう言って兄にもシュークリームを勧め、お茶を入れようとキッチンへ行くと、リビングのソファに兄は子供を置いて軽い足取りで自分を追いかけてきた。 「ふふ。」 「?……何?」 「んー……。ハロウィンさんやチップが来てから、ほとんど毎日来てくれるよねって。」 裏なく全開で笑う兄を見て、思わずいつもの様にげんなりとした風にため息をついてしまう。そしてそれからまたいつもの様に、少し眉をしかめて笑った。 相変わらずだ。きっと、ずっと変わらない。 今日もあの家のノッカーを打つ。 「―――お兄さん、チップ迎えにきたんだけど―――……。」 ドアを腕で支え、いらっしゃい、とほほえんで出迎える兄。そしていつもみたいに招き入れてくれる―――が、今日は何かが目についたらしく、ふと動きが止まる。 「髪、切った?」 「うん。涼しくしてみた。」 照れた様にジェファソは首元に手をやるがその部分はもうすでに軽くなっており、時々やる癖は軽くそこをひっかく仕草に変わった。 「―――似合うけど……。ちょっともったいない……気もするかな。」 兄が手櫛で軽くすくと、そこからいつもとは違うシャンプーの匂いがふわりとただよった。肩より四インチばかり長かった髪はショートカットに切られて首が見える。 「左目は?出さないの?」 そこだけは今までと同じ様に、髪で隠されている部分に兄が手を伸ばすとするりと身を引いた。行き場をなくした手は少し困った様に揺れて、喉からつっと顎をすくう。 「せっかくの月≠ネのに。もう、コントロールは出来るはずでしょ?」 目の合わさるほんの一瞬の間の後、兄の手首をつかんでゆるくかぶりを振った。 「ううん。……ううん、いいんだ。」 そう言って、ほほえむ。けれど何故だろう。ほほえむ時は、いつも泣きたかった様にも思った。 でも、子供の様にわがままで泣いたりわめいたりはもうしない。 目を開けてさえいれば、必ず見えるものがあるのだから。 ただその確かなものが欲しかった。 ――――There is no child who has already cried for the Moon. |
義務教育:イギリスの義務教育は五〜十六歳までです。 シックスフォーム:義務教育の後、大学進学希望の者が二年間受ける、いわゆる高校。 継続教育カレッジ:義務教育の後、職業に関連した実務や技術等を学ぶ職業学校。 九月から〜:イギリスにおける新学期は九月からです。 cry for the moon:月を求めて泣く。意味は、ないものねだり。 |