----Cry for the Moon.

 イーミルが住まう、遙か太古。
 砂もなく、海もなく、冷たい波もなく。
 大地もなく、天もなく。
 ただあるのは底のないギンヌンガ・ガップ。
 草の一本もなく。

 ―――漠々たる光射さぬ所、羊水につかり丸まる胎児の様に存在している、と感じた。幼い頃より聞いていたエッダの巫女の予言≠ヘ、曖昧にとろけてしまいそうな自分≠ェ思い出しているのか、それともこの暗い闇にただよう声なのかは解らない。そうして意志なくさまようと地面があるのに気付き、何とか天地の判別が付いたが、まだ世界は縹渺としていてその形はようとして知る事が出来なかった。それとも、目がつぶれてしまっているのだろうか。
 ………目………。
 今度は自覚して、そう思った。
 そして瞬間に流れる喪失感と、焦燥感。けれどまだ、何もかもがおぼろげで、何か、何でもいいから捕らえようと不安のままあえぐと、震える唇に何か熱い物が触れて反射的に赤ん坊の様に吸い付いた。口にあふれる甘いみたいな物は、喉にとろりとからみついて流れてゆく。先ほどまでの不安を忘れ、もっととねだると、その意図を汲み取ってくれた様で満足するまで何度も何度もそれを与えてくれる。人心地が付くと、とてもいい匂いがするのに気付いて、思い出した様に目が開いた。
 目を開けると、美しい裸体の女が一人、こちらを見て嬉しそうに笑った。
 女は、銀の髪に金の瞳をしていた。
 あ、と思わず声を出しそうになったが、衰えた口はかすかに開いただけで色のない空気がひう、と漏れただけだった。女は、そうやって意志がある事にまた目を細め、持っていた小瓶に口を付けて中の物を口うつしで飲ませてくれる。鮮烈な印象があったさっきとは少し違う風に感じたが、さっきまでのもこうやって彼女が飲ませてくれていたんだろう。
 もういい、と意思表示する様に口をつぐむと、笑ってそこに唇を一つ落とし髪をすいてくれる。それが気持ちよくて、目を閉じると隣に添って優しく抱きしめられた。犬の様に小さく鼻を鳴らし、今度は、安心してぬくもりの中に意識を手放した。
 そうして何度か覚醒と眠りを繰り返していた様に思う。目を覚ました時には必ずあの女と、そして時々別の誰かがいた様に思うが、誰だろうと考える前、誰だったろうと思い出す前にどうしても瞼が落ちてしまった。

「体を起こせるかい?」
 そう言われつつ、うながされる様に背中に腕を差し入れられると、女のその腕を支えににじって何とか体を起こそうとした。口以外に動かそうと思ったのはこれが初めてだったのだが全く思い通りにいかず、手足があらぬ方向にぱたぱたと動くのに驚いた。半分焦りつつムキになって動かそうとすると、思いの外強い力で女の方に手が飛んだ。
「……ふふ、元気な子だ。ベオルトモンド、後はお前次第だがもう大丈夫だろう。辛かったね。」
 殴ってしまったという罪悪を払拭する様に強く笑んで、また抱きしめられる。何も付けておらぬ女のふくらみがやわらかくてあたたかく、くすぐったかった。恥ずかしさもいやらしさも感じなかったのは、まだ意識が淡いものであったからではなく、この人が自分の祖である母だと一番深いところに刻み込まれていたからだ。
「お前の傷は深くてね、脳の方まで弾が食い込んでいたんだ。ベオルトウルフが月≠分けてくれなかったら、本当に……どうなっていたか……。」
 そう言いながら彼女は、握らせる様に手のひらの中心に一センチに満たない小さな金属球を強く押し付けた……が、痙攣するかの様に手が勝手に跳ねてそれはころりと何処かへ転がった。
 そして言葉も受け損ねて見つめていると、額に浮かんだ汗を頓着なくぬぐってくれる。それに少ししかめながら目を閉じて、次に目を開けると黒髪の少年が映った。
――――――……。」
「ジェイ……、よかった……。」
 手に持っていた葉がたっぷり備わった枝と湯が入っているらしい小さな桶を自分の寝ていた脇の棚に置くと、女に張る様にぐっと迫ってきて、抱きしめられたりふれられたりするのかと思ったが、何故かぎりぎりで彼は躊躇した。
「……聞いていたかい?ベオルトウルフ。お前も辛かったろうが、もう大丈夫だ。」
「はい、大おばあ様。」
 黒髪の彼は髪をなでられると、子供の様に頭を落としてすり寄った。もしかしたら、泣いていたのかもしれない。
「じゃあ、体を拭いておやり?ここはお前に任せよう、ベオルトウルフ。」
 そう言って女は椅子の背に引っかけてあった薄いローブを手に取ると、さっと羽織って出て行った。彼女が出て行くまでを目で追いかけると、黒髪の少年は先ほど持ってきた桶の中に布を突っ込んで固く絞る。服は脱がされるまでもなく、自分も一糸すらまとわぬ姿であった。ベッドの頭側の壁を背もたれにしていた体を軽く折り曲げさせられ、正面から抱き込む様に支えられると首の後ろの骨張った辺りに熱い布が置かれた。首周りを丁寧に拭かれるのが気持ちよくてため息をもらすと、相手も満足そうにふっと息をつくのが伝わる。
「ジェファソ……。僕を、覚えてる………?」
 裸の肩口に当る彼の喉が、緊張に震えたのが印象的だった。まだ声が喉を通らないので肩にこすりつける様にうなずくと、ほどけたみたいに彼は脱力する。
「……ごめんね、あの時、殴り付けて縛っても止めるべきだった。」
 今度は、ためらう事なく抱きしめられた。
 ―――彼は、僕の兄だ。
「恐ろしく嫌な予感はしたけれど、こんな酷い事になるとは思ってなかったんだ。」
 そして両手で顔を包まれ、確かめる様にまじまじと見つめられる。こんなに動揺して、瞳を涙でぬらす兄は、初めて見た。その左目には、眼帯。訴える様に首を傾けて迫ると視界の違和感が酷くなる。そうされていたのも曖昧だったが、自分の左目も撃たれたとかで覆う様にぐるりと包帯で巻かれていた。
「?……大丈夫だよ。大おばあ様が義眼を入れて下さったから。馴染めば視力も付くだろうって。」
 自分である感覚が一気に戻って、全身の毛穴がわっと開いた気がする。どくどくと血が逆流して体の表面にざっと何か熱いものが通った。
 思い出される、自分が倒れたあの瞬間。けれど自分が倒れた時に映った光景と被さって倒れる自分が見えた。―――それを見たのは、兄だ。
 駆け寄って、怪我の様子を見れば身を引くほどおぞましい。目に開いた黒い穴と、その周りにただれてちぎれた瞼のかけら。身は引いたが決して目はそらさず、月≠フ力でぐっと見れば、つぶれた眼球と奥にある銀の玉が見付かる。先ほど、手に押し付けられたあの銀球だ。その先を見たくなくて、固く目を閉じた。かちかちと歯を鳴らして唇を震わせると、そこにそっと兄の唇を受けた。硬直した体と閉じた瞼をゆるませると涙が止めどなくあふれる。
 僕は、この人から目を、月≠奪ったんだ………。
 ようやく自覚した。喉から胸まで強く引きつれて、このまま二つに裂けてしまえばいいと願う様に思った。
「……ジェイ。」
 ぶるぶるとみっともなく震える体を兄は優しくなでてなだめる。
「大丈夫だよ。」
 兄の、なぐさめがこんなに欲しい事はなかった。ひっ、ひっと突っ張った泣き音が止まらない。幾度も頬をついばむ唇の感触。涙をぬぐう舌の感触。兄は、いつだって誰より優しかった。変に力が抜け、まるで逃げる様に体が丸まると、体を壁にもたれられる様にしてくれる。背に固く頼りになる物を得ると、一層涙があふれた。
「泣かないで。……謝るのは、僕なんだ。」
 額にかかる髪を分けすいて、こつりとそこに額を当てられる。
「……ごめん。僕は嫌われるのが、怖かったんだ。お前が僕を嫌っているのはずっと解っていた。けれど絶対に手放したくなかった……そのエゴだ。」
 そして兄は、伏せた右目の長いまつげを、ゆるやかなカーブを描く頬を、止めどなくぬらす。瞳を開けると光あふれ、ゆらぎ、雫をこぼす月≠ヘ美しかった。
「月≠ェある事を、自分が特別である事を、僕は拒みながらも受け入れていた。……ホントに特別だったし、周りの奴らは皆愚かしい者だったしね。」
 ごく淡く、酷薄そうに兄は笑い、ああそうだ、と心の中で思った。それがきっと、許せなかった余裕。
「……その中で、ね、お前が僕にとって特別だったんだ。何にも代えられない弟。その弟にとって、僕は月≠ナも異質でもなく兄である事が、嬉しかった。いつでも真っ直ぐ目を向けてくれていたし、ずっとそうである事を望んでいた。……解っていたけど、望まずにはいられなかったんだ。」
 ジェファソは顔をしかめたが、それは確かめる様にべたべたと顔をさわられている事に対してではなかった。声を出せていたなら、思考が麻痺していなかったら、一体何と言えただろう。兄の気持ちに共感出来る、という事はない。兄の気持ちを知って安心したと、いう思いもない。……ただ、この人も変わらないんだと思った。
「気に病む事はない。月≠ネんてどうでもいいんだ。」
 途惑って、躊躇したり、醜い気持ち。譲れないという、わがまま。
「お前の、兄でいたかったんだ。」
 そうしてまた、強く抱きしめられる。すでに片方しかないそれを自分のせいで、とも思ったが、自分の為にと思うと胸がじわりと焼ける。兄が、どんな目で自分を見てきたかは月≠ェ教えてくれる。
 その代わりに、声が出せる様になったら真っ先に呼んでやろうと思った。
 ――――エルダーと。



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