----ばらいろすみれいろ

 薔薇で作った傷は治りにくい。

 古い傷だ。よく見なければ解らないが、右腕の外側、肘から手の甲にかけて三インチほどの長い線が走っている。引っかいたという思い出がなければ自分でも気付かないだろうというほど、それは周りと馴染んでしまっているが。
 左手でわしわしとこすりうぶ毛を逆立てさせると、傷をない物とさせる。作った時期を考えるとよくここまで残っている。多分これは、消える事はないんだろう。

 何か夢を見て、目を覚ました。
 懐かしい様な近い様な。よくは覚えていないが、そういえば服を脱いで、着替えをしていた様な気がする。着替え……仕度……。
 ―――時間!
 一瞬にして脳まで覚めた。溺れた様に空気をかくと、彼は枕元の目覚まし時計を捕まえて息を呑む。針は見慣れない時刻を示していた。混乱したまま三度ほど見回し、その情報を何度も頭で繰り返してようやく気付く。遅刻どころかいつも起きるより三十分ばかりも早い。脱力すると冷えた体がどっと熱くなった。いつもと比べて日が高い気がするが、今日は暑くなるんだろう。二度寝する気にはなれなかった。
 ハニーブラウンの髪を手櫛でなで付けると今度は現実で着替えを始める。肘までのモスグリーンのシャツはあの傷を隠さない。夢の続きをする様に彼は傷をなぞってみるが、それは夢で見たよりずっと薄くて気付かない。思い出がなければ解らない。
 思い出……罪悪感。
 誰かの顔がちらついて首を振ると、空気が動いてやわらかな花の匂いに気が付いた。薔薇ではないが…と、視線を部屋中にめぐらせると棚の上に何本かの房状になった紫が灯っている。ラベンダーだ。夢の様な曖昧を思い出して、リラックスと安眠のハーブなのだがと苦笑しつつ首をすくめた。ともあれ、これは最近花や木の薬効に熱心な同居人、いや居候の仕業だろう。
 ……いつの間に。
 昨日の夜にはなかったはずだ。すると今朝。彼はもう起きて朝食を待っているかもしれないと思い、勢いよくズボンを足に通して靴を引っかけ、ジェファソは部屋を出た。
「おはようチップ。」
 居候は新聞から顔を上げ、ちらりとだけジェファソを見るとおはようと軽く返す。
「スープは出来てる。後はお好きな様に。」
 そうとだけ言うと、自分の為に煎れたハーブティーをすする。頭につられて長いうさぎの耳がゆれた。
「チップは?」
「もうすませた。」
 今は食後だと言わんばかりにチップはティーカップを持ち上げた。もう視線は新聞紙の方だ。
 いくら許しているとはいえ、家主に対してずいぶん立派な態度だ。けれどまあ、干渉して暮らすよりこの方がいいだろうと、ジェファソはかつての、そしてごく最近に経験した兄との生活を思う。気を遣わず単純に、朝起きてスープがある生活を甘受すればいい。
 うん、そうだ。間違いなくそうだ。
 元々自分達は身内の繋がりが異常に強い血族なのだが、兄は気に入った相手には信じられないほど多くを許し、けれど離れていく事を決して許さない。大分そういうところはなくなったが、単に見せなくなっただけだ。
 片手鍋の乗ったコンロに火を点けると、せっかく早くに起きたのだから少しだけ手をかけた朝食にしようと考える。定番のカラリと焼いたベーコンとソーセージ、卵焼きはトマトを入れてやわらかく、薄く切ったジャガイモはフレッシュローズマリーと一緒にオリーブオイルとバターでカリカリに炒めて、サラダ菜にボイルしたエビとひよこ豆の水煮を乗せてビネガードレッシングを。
 ―――兄のヴィヴィアンはつい一ト月ほど前、かなり荒れた。
 縁が焦げる気配がしたので片手鍋の蓋を開けて一つかき回してやると、複雑なハーブの匂いが立ち上る。悪いまじないは入っていない様だが、その薬効は見当も付かない。
 ―――兄は、よくいえば情が深く悪くいえば執念深い人だから、許した相手を排除したり、危険な目に遭わせて失う事になって相当堪えていた。沈んだと思えば当られる、謝られたと思ったら試すみたいに冷徹になった。
 十日ほどだったか……。
 いつ終るかも解らない昔みたいな兄との生活が続いて、けれど酷い目に遭ったにも関わらず彼らは意外なほどあっさりと、ぽかんと拍子抜けしてしまうほど全く普通にこちらへ戻ってきた。向こうも坊主頭になった兄に驚いて、また逃げられそうになったけれど。
 その事を思い出すといつも笑えてしまう。少しは伸びたが、兄の髪はまだ短い。髪を剃る事が反省を示すのは万国共通だろうか。ジェファソと兄ヴィヴィアンの間では少し意味合いが違った。解決出来ない喪失。否定しようがない自らの責任。
 薔薇の傷。
 パンを二枚トースターに押し込むと、ジェファソはため息を漏らす。今日は不思議だ。何故こんなにも過去を、あの時の事を思い出すんだろう。
「ねえ、このスープ何が入ってるの?」
 ふと、まとわりつくハーブの…まじないの匂いが気になった。
「タマネギとか薔薇とか、ハニーサックルとかチェストナットバッドとか。」
 投げる様にチップは返す。その味は特に不味くはなかったが、食事というには奇妙な味がした。



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