思い出とは一体何の為にあるのだろう。

 過去を思い起こすのは何の役に立つのだ?
 どうやったって昔には戻れないのに。
 ただ昔の失敗を繰り返さないだけのものなのか?
 大切なのはむかし≠セったかもしれないのに。

   里人時間 −さとびとじかん−

「こんにちはー、ダンナさんいますかァ。」
 すだれを立てかけ、中の熱気を抜く様に開けっ放しにしてある戸から一人の女性が顔をのぞかせた。
「はい、いますよォ。」
 古びた外観からしてこの店は狭そうだが、中に入るとさらに狭い様に思う。妙に埃っぽく、店晒しの品々が高々と積み上げられ圧迫してくる。一人の男がいつもの様に店番をしていて、狭い為、少し奥に感じる帳場から返事をした。店の中は少し蒸している。男は軽く団扇を煽いでいたが女性が入ってくるとその手を止めた。
「こんにちは、さとこさん。すみませんねェ、わざわざ持ってきていただいて。」
「いいえ、ちょっと用もありましたから。」
 さとこ、と呼ばれた女性は手に持っていた掛け時計を帳場の上に置く。人の手がさわってずいぶん黒くなった古い時計だ。かといって特に値打ちのある様な時計には見えない。本当にただ古いだけだろう。
「ま、座って下さいな。」
「はい、すみません。」
 勧められ、さとこはただ丈夫だけが取り柄、といった感じの椅子に座る。そしてしっかり腰を落ち着けると他愛ない日常会話を始めた。
「うちのじいちゃんがまた誉めてましたよ、こんな古い物でもちゃーんと捨てずに直して使って……。」
「はは、そりゃアタシん所は懐古店ですからねェー…。と言っても骨董店とはいえない古道具屋ですけど。」
 長い黒髪を後ろで束ねている男は、直ったばかりの古時計をなでながらそう言う。ここには他に四品ほどの古時計が壁とほぼ一体化しながらかかっており、かちこちと心臓の音をたてていた。
「とりあえずお茶を出しましょうかね、お茶菓子…あんこはお好きでしたよね。」
 男はそう言い、帳場の後ろのふすまを開けて家の居間に入っていった。
「はい、お気遣いなく。」
 すでに口の中は甘い状態でさとこは言った。彼女はぽっちゃりしたその姿から想像出来る様に、甘い物に目がなかった。朝なのでまだ暑くはないが、どこかしけった空気がまとわりつく。平凡なこの時間に、満たされた思いを感じながら、彼女は遠い蝉の声と共に、ことことと生活の音が響いてくるのに耳を傾けていた。
「旦那ァ、何してるんですかぃ?」
 不意に居間の方から別の男の声が聞こえる。
「いけませんぜ?俺の仕事取っちゃぁ。」
「いやァ、お前さん掃除してるでしょう。」
「いいから、旦那は戻ってお嬢さんの相手をなすって下せェ。」
 その会話が聞こえてからしばらくして、ぽりぽりと頭をかきながら男が戻ってきた。
「やー…、追い返されちまいましたよ。」
「旦那!滅多な事を言いなさんなよ。」
 少し皮肉が混じった様なたわごとに、居間でお茶の仕度をしている男はそう大声をたてる。
「ふふ、いい人じゃないですか。ダンナーなんて、時代劇見てるみたい。」
「そうですねェ、まあよく働いてくれますね。ねえ、空光たかあきら?」
 居間の方にそう声をかけるとすぐ、男はお茶とお茶菓子を持ってきてやってきた。
「俺をおだてても何も出やしやせんぜ?」
 赤茶けたそろっていない髪が腰まである男は、そう言いながらお茶を出す。見た目悪っぽいのに、その男は妙に礼儀が良かった。夏の残る空気に、麦茶に入った大きな粗い氷が音をたてた。
「お前さんから何が出るっていうんですか。アタシゃ何にも期待してませんよ。」
 旦那は、からかう様に、そしてどこかたしなめる様にそう言う。
「まあ何か変な期待あるよりはいいがな。」
 男はそう言いながらお茶菓子の葛饅頭を出す。そして聞き手にまわっていたさとこを気にするそぶりをした。
「ささ、まあお饅頭でもかじって……。そうそう、お代払ってなかったですね。」
 さとこを気づかう様な空光の雰囲気を受け、旦那が明るくそう言う。
「ああ、いいんですよ。」
「いいって…?」
 旦那はその返事に驚き、軽く持ったグラスを置いて、きちんとさとこに目を合わせる。
「ええ。うちの店に飾る絵が欲しいんで、物々交換にしてくれません?」
「ああ、構いませんよ、では絵を持ってきましょうか。」
 旦那は腰を上げ、ごそごそと日の当たらない所に置いた箱をいじる。さとこは饅頭に手を出さず、首を伸ばして旦那の様子をのぞいた。
「しまってあるんですか?」
「古い絵っていいますのはね、絵の具が自然界の物でとても弱いんですよ。日に当って色がとんでなくなったりしますんでね。まあ、大切にしまっておいてもいずれはそうなってしまうんですけど……。」
 空光は背中を向けている旦那にすっと近付き、中に色々絵が入っているだろうその大きな箱を持ち上げるのを手伝ってやった。
「じゃあ旦那、俺はこれで。」
「はい、ありがとう空光。」
 互いに軽く会釈をしあい、それから空光はまた居間へと引っ込んでいった。奥からは掃除機の様なうるさい音はしない。多分ほうきやはたきや、雑巾などの原始的な道具で掃除をしているのだろう。届く音が心地よく、どこか懐かしい。つくつく法師が過ぎ行く夏を惜しんでいた。
「ホント、よく働きますね、彼。」
「はは。おだてても何も出ないって言ってましたでしょう。」
 旦那は笑いながらお茶を横へやると、箱を開き始める。
「ふふ、そうですね。でも誉めるに値するいい男ですよ、彼は。」
「でも―――、ここだけの話……。」
 旦那が顔を近付け、口に手を添えて小声でそう言うと、さとこも顔を近付けて耳を立てる。
「ホントは、アタシなんかより空光の方がずっと偉いんですよ。」
「えっ?……彼っていくつなんです?」
 思わず口に手を当てて高まる声のトーンを抑えつつ、さとこは尋ねた。
「いくつに見えます?」
「…えー、と……、二十代後半って所ですか?」
 突然質問され、さとこは戸惑いながら人指し指を顎に当てて答える。
「じゃあアタシはどう思います?」
「えっ……、とぉ……。」
 この旦那、という男は謎の人物である。名前はこの店と同じ名前、九十九つくも。店の名前は九十九懐古店かいこてん。扱っている物は古いだけで、骨董の価値のなさそうな民芸博物館の様な店だ。そしてそれは無造作に鎮座ましましている。この店は、一体いつからここにあったのか解らない。この旦那に関してもそうだ。商店街からも駅からも少し離れたこの店は、本当にいつからあったのだろう。長い黒髪を後ろで縛り上げているこの男は、旦那、というにはまだ若い。どちらかというと若旦那という感じだ。だが、全てを超越した老人の様な落ち着き、おだやかなほほえみが彼をさらに年齢不詳に見せていた。
「二十代ー…後半……くらい……。」
 しばらく悩んだ後、彼女はおずおずと答える。真剣に悩んでいた為に情けない顔だ。そんな彼女をどこかバカにする様に旦那が吹き出した。
「正直に言っていいんですよ。アタシゃ年齢なんて気にしませんから。」
「えー、はっきり解りませんよ。でも空光さんよりは年上に見えますね。……違うんですか?」
「ええ、彼よりアタシの方が六百年くらい若いんですよ。」
 からかうつもりなのか、旦那はくだらない事を言う。周りに親父ギャグを言う人が沢山いるさとこは、慣れた感じで軽く笑ってかわした。
―――で、どんな絵が欲しいんです?」
「そうですねェ、お値打ちで、あんまり華美じゃない雰囲気のいいのがいいですね。」
「ははァ、難しい注文ですねェ。」
 そう言いながら旦那は箱をあさって中の絵を出していく。さとこも葛饅頭の事は忘れ、一緒に絵を探した。
「……この辺りですかぃ?」
「ああー、こんな感じですね。ええ、これ凄くいいなァ。」
 旦那が広げた絵は一匹の雌のきじがやわらかく描かれている。雄じゃなくて雌な所が、とても素朴だ。
「ま、他のも見てみましょうか。」
 とりあえずは雉の絵を横へやり、また二人で絵を探す。箱に頭を突っ込んでごそごそやっているその姿は、何か動物が餌を食べている様な感じだ。
「あれっ?」
 さとこが絵を広げて驚きの声をもらし、その声を聞いて旦那はその広げた絵を確かめる。
「あッ。」
 そこには、着物を着た一人の女性が描かれていた。
「これ、凄くいいですけど……何か新しくないですか?」
「ああ―――。実はこれ、アタシが描いたんですよ。商品と一緒に保管しちゃってましたか。」
 旦那はどこかまずそうに、そして恥ずかしそうに頭をかいた。
「凄くいいですよ。」
「いやァ、お恥ずかしい。」
 だがそう言った旦那の表情には照れ、というより失敗した、というものがにじみ出ている。
「……この女性、好きな人ですか?物凄く表情が……。やわらかくって、こう―――……。」
 さとこは、旦那の表情には気付かないで、彼の方は一つも見ないでうっとりと声をもらす。
「まあ、そんなところですかね。憧れの人ですよ。」
 賞賛の声にか、先ほどよりはいくらか表情をいつものおだやかなものにして旦那は答えた。
「むつかさんっていうんです。冬に、雪の降る日に生まれたそうで。……誰より肌が白かった。」
 絵に釘付けになっているさとこには解らないが、旦那は瞬間的に切なさそうな顔になった。しかしよく考えると着物を着て、しかも頭をちゃんと結っている女性に対して好きな人、憧れの人、とあてがうのは不思議だ。だが自然とそう思えた。
「……これ、いただけませんか?」
 決心した様にさとこは言った。なんて引き込まれる絵なんだろう。旦那の思いが込められた丁寧な仕事ぶり。心を決して放さない。それどころかまだぐいぐい引っ張っている様だ。
「え?こんなんでいいんですか?こんな…価値のない……。」
「いや、見れば見るほど……。私これのがしたら絶対後悔しますよ。」
 言葉にするのは難しい。しかし本当に吸い込まれる、といった感じだ。描かれている女性の肌に、その視線にひかれてたまらない。おだやかにこちらを見つめてほほえむ少女。少し、着物の袖をつまんでいる所がまたたおやかな感じがして……。自分は女だが、ひょっとしたらこの乙女に恋をしたのかもしれない。そんな感じだ。
「あ、でも……。」
 さとこは不意に絵から視線を外し、先ほどまでこれにしようかと見ていた絵を広げる。
「ダンナさんの描く絵って、この人のと似てますね。えーと……。」
凪些なぎさ、と読むんですよ。」
 旦那は絵の左下に書いてある名前を読み上げた。
「有名な方なんですか?」
「いぃえー、全然。なんたってこの人アタシですから。」
 かんらかんらと笑いながら、旦那はどうとっていいか解らない冗談を言う。
「?……その人の家系って事ですか?」
「まあ、そんなところでしょう。」
 まだいくらか笑いながら、旦那は自分の描いた絵を丸めてさとこに渡す。
「これは差し上げますから、もっとまともな物を選んで下さいな。」
「え、いえ……でも……。」
 すでに欲しい絵は受け取っていた為に、さとこはすまない気持ちになった。ただでさえこの絵には、古時計の修理以上の価値があると思っているからだ。しかし旦那にしてみれば自分の趣味に描いた絵が、割と高い古時計の修理費用と釣り合うなんて思ってもみなかった。損得で考えると、引け目を感じる。
「アタシは―――、これからもお宅を当てにするつもりですからね。」
「あ、ははァ……。」
 だから恩を売ろう、という魂胆…という事なのだろう。互いに気が楽になった。
「じゃあ高そうなの選ぼうかなァ。」
「はは、うちじゃあ限られてますよ。」
 旦那は笑った。確かにここは、一般の人の価値≠ニいうものがない。あるのは民族学的な価値だけだ。
「そのポケットに入っている物の方が、一般の価値は高いですよ。」
「えっ……。」
 さとこは正直に驚く。今までに彼にその物≠見せた事も、その物の事≠話した覚えもない。
「アタシは元泥棒でしてねェえー。」
 うふふふ、と旦那はいやらしい笑いをする。さとこはその言葉を信じた訳ではないが、慌ててエプロンのポケットをまさぐった。大丈夫、感触はある。
「ダンナさーん、驚かさないで下さいよぉ。」
「ふっふふふふぅ〜。」
 さとこは手にそれを乗せ、なでて確かめた。小さな細工がなされたきれいな金の、懐中時計だ。
「何で解ったんですか?」
「そう、ですねェ。……きれいな時計ですね。」
 旦那はただにこにこして、質問には答えなかった。
「よく見せてくれません?」
「……ええ。」
 時計はさとこの手から旦那の手へと移される。鎖がしゃら、と音をたてた。そして旦那は蓋を開け、文字盤を見つめる。針は、止まっていた。蓋の裏には何か書かれていたが……読めない。
「……直さないんですか?多分、これゼンマイでしょう。」
「ええ…、あえて、そうしないんです。」
 そう言われても気になるのか、旦那はねじを巻いて耳に当てた。時計は、チッチッ、と少し針を進めるがまたすぐに止まる。
「何か……部品を変えたくないんです。」
「…………………。」
 旦那はゼンマイのすり減っている金の時計を見つめる。そしておもむろに目を細めた。




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