「……っ!い…てぇー……。」
 男は包帯の巻いてある右足を見る。男は三日前、階段から落ちて捻挫していた。全治は三週間。まだ松葉杖を使いこなせない。ついつい怪我した足を動かし、ぶつけたりしてしまう。
「…っ、くそぉ!」
 病院の受付を通ると、男はどっかと椅子に座った。捻挫した足はとても不自由でたまらない。男はやたらかりかりしていた。
 そもそもこの男が捻挫したのは自分のせいではなかった。酔っぱらいにぶつかられたのだ。それが平坦な道ならまだよかったのだが、そこは急な地下鉄の階段だった。後は家に帰って眠るだけだったのにそのおかげで一日が最悪になってしまった。太った酔っぱらいは自分を下敷きにし、その上気に入っていたシャツに吐いたのだ。今思い出してもいまいましい。
「やっぱり、とっとと帰ろうかなぁ……。」
 男は切なくなって独り言をもらす。男は家を出て新宿に働きに来ていた。だが別にここで一生を送るつもりはない。そろそろ家に帰って親父の後でも継ぐ、そんないい機会かもしれない。男はため息をついた。
 そんな時、不意に周りが騒がしくなる。どうやら急患だ。

 一人の男はその少し前、用事で外に出ていた。そして、歩行者用の青信号が点滅した時に後ろから車に跳ねられた。どこをどう打ち、切ったのか、脇腹から大量の血が流れ出た。解らない。頭の中が真っ白だ。何処かからうるさい音が聞こえる。あれは救急車なのか?
「もしもし、大丈夫ですか?意識はありますか?」
 目の前で誰かが叫び、頬を叩いてくる。それは解っているがただ理解しているだけだ。
「日本語は解りますか?」
 男は訳の解らないままノゥ、と何度もつぶやいた。声が、自分の声でない様だった。
―――RH-ABだって?」
 医者は驚いて声に出す。それが唯一、意思の疎通が上手く取れない彼から聞き出した情報だった。だがこの病院にRH-ABの血液はなかった。医師はとりあえず止血に専念し、RH-ABの血を他の病院から取り寄せようとした。しかしそれがある所は往復で一時間ほどかかる総合病院だ。被害者の男の顔は、すでに真っ白だった。

「……るさいなぁ。」
 捻挫している男はさらに不機嫌になった。急患なのは解るが自分の名前は全然呼ばれないし、先ほどから看護婦が往復している上、空気がざわざわしてちっとも落ち着かない。
「……何か、事件でもあったのか?」
 雰囲気があまりにも尋常ではないので、男はふと冷静になり辺りを見つめ直す。ざわめきの所々で、RH-ABと聞こえる。多分血液型なんだろう。それがめずらしい血液型なのを男は知っていた。父親からよくその事を聞かされていたからだ。父親はかつて拒否反応で死にかけた。そして自分も同じ血液型。RH-ABだ。こうなってくるとどうも人事ではない。少し苦い顔をした。
「…あのぉ……。」
 男はおずおずと看護婦に声をかける。彼が捻挫で、薬のたぐいは投与していなかった事が幸いだった。
 そしてそれが、何の接点もない二人の男を近付けた。

 植野俊男うえのとしおは最近全くついていない。神様、一体僕が何をしたというのでしょうか、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。そんな心境であった。酔っぱらいにぶつかられ、駅の階段から転げ落ちて捻挫。病院で輸血に協力したものの、その後自分が貧血になってしまった。おまけに助けたのは男。ひょろっとした外国人で、別に大して期待してはいなかったが……お礼もないだろう。ついでにくわえると自分は仕事をクビにされていた。今までバイトの様な、パートの様な立場だったが、結構よかった収入がなくなるのは、辛い。自分が休んでいた時に入ってきた奴がよく働くからって………。
「日本民族の義理や人情はどこ行ったんだ……。」
 俊男は思わずつぶやきながらとほほ、と肩を落とす。
 高度成長がなんぼのもんじゃ。そんなものと日本独自の美学が引き替えにされているのなら……。くそ、世の中は間違っている!断じて間違っているぞ!
 そう思うと俊男は無性に家に帰りたくなる。彼の家は新宿と同じ東京にはあるが、まだまだそこは下町であった。陰気くさい病院と、男臭い自分の部屋。特に誰にも会わない、何もない、ただ病院と部屋の往復の毎日に俊男はだれていた。やはり神様は自分に家に帰れと告げているのだろうか。
「そー…だよなァ。」
 俊男は、ここにきた目的がなかった。家が嫌いでもなかった。何かさァ、都心ってかっこいいよなー。俺、そんな所に住んでみてェー。……動機はそんなもんだ。そう考えると自分のここでの立場はどうでもよくなってくる。ぼんやりだが父親の後を継ぐ気ではあったし、死ぬまでいるならやっぱり故郷だし、……彼女はいるし。
「よし!帰ろ帰ろ。」
 思い立ったが吉日。善は急げ。今日出来る事を明日まで延ばすな。
 きっかけとは凄い。何となく帰り辛くて、今までだらだら過ごしてきたのが嘘の様だ。ようやく松葉杖なしでも歩ける様になった右足を酷使して俊男は少ない荷物の荷造りをすると、彼はその日のうちに部屋を引き払ってしまった。
「いやあ、すがすがしい。」
 そして俊男はいそいそと大家さんの部屋の電話を借りて、親にかけた。
「あ、母ちゃん?俺俺、うん、俊男。あー…、うん、そう。俺帰るわ。」
 懐かしい母の声が耳に響く。帰ると言って母は嬉しそうだ。電話口を押さえているのだろうが、父ちゃん、俊男帰るって、と言う声がしっかり聞こえてきた。
―――莫迦野郎!早く帰ってこんか!」
 突然、普段電話なんかさわったりもしない父親の怒鳴り声が耳に響く。彼は彼なりにずっとやきもきしていたらしい。今はそれも懐かしかった。
「うん、今日電車乗って、帰るわ。」
 そして俊男は久々に家に帰る事となる。その、二時間ほど後だった。淡い髪と、淡い瞳の…たどたどしい日本語を話す青年がここへやってきたのは。
 その青年、ブランドン・ステイモスは、ウエノトシオという男がすでにここにはいない事を、タッチの差でいなくなってしまった事を顔の全てで悲しんだ。

 やはり自分の過ごした場所はいい。駅から家まで歩くだけで色んな人が声をかけてくれる。足の心配をしてくれる。食べ物を与えてくれる。まるで天国。薄情な都心とは大違いだ。
「俊ちゃん!」
 後ろから声がかかる。どこか舌足らずなその声の主を、俊男はよく知っていた。
「……早苗さなえ…!」
 早苗という女性は俊男の側に来るやいなや、彼の胸ぐらを叩く。
「バカ!もう何で先に帰ってくるって言ってくれなかったの!」
「ゴメンゴメン、帰ってきたって事で、許して。」
 俊男は顔の前で手を立てて、笑いながら謝る。それが気に入らなかったのか、早苗は少しむっとした。
「あたし何度か浮気しようって考えたんだよ?本気で!」
「えっ?マジで?……間に合ってよかったァ。」
 大げさに胸をなで下ろす俊男に、早苗は肩をすくめてみせる。
「解んないわよっ…と。」
「あーもー!…怪我人だからもちっと優しくしてくれよ。」
 俊男がそうぶーたれて足を上げると、どこか白々しく早苗は彼の足を見た。
「あ、ホントだ。ホントに気が付かなかった。」
「何か泣けてくるぜ、俺。」
 困った様な情けない顔をして俊男はそう言うが、早苗はまだ彼を許してはいないらしかった。
「命に関係ない怪我くらいで優しくしないわよ。あたし。」
「はは、まあいいや。今から家に帰るんだけど、一緒に来る?」
「行く。」
 早苗は即答した。
 俊男と早苗は一応恋人同士、という事だったが、ただの友達の延長といったらそうだった。幼なじみで、友達からずるずると恋人に、このままだとずるずると結婚までいき、ずるずると老いていきそうだ。好きだ、なんて言った事もない。だけど、俊男はそれでよかった。

 俊男が家に帰って三日ほど過ぎた頃だ。商店街を挙動不審の男がうろうろしている。何度も地図か、住所らしい紙と周りとを見ている。夕飯の仕度のせいか、人は行き過ぎて行くばかりだ。たまに声をかけられても男の方が話せずに困っていた。そしてその末に男は、前から来た買い物返りらしい女に、思い切って声をかけてみた。
「アノ、ボクさがす。……ウエノトシオ、というヒト…、アノ。」
「はー…、俊男の友達かい?」
 それは偶然にも俊男の母親だった。彼女はこの男を、俊男の新宿での友達だと思ったのだ。
「いえ、アノ……。」
「ふんふん、いーからいーから、うちはこのすぐ先だよ。あたしは俊男の母の則子のりこよ。」
 おばさんパワーに勝てる者は何もいない。男は引きずられる様に彼女についていった。どっちにしろトシオに会えるのだ。まあ誤解されたままでもいいか、と男は思った。そしてふと彼女の持っている荷物に目がいく。
「……ボク、はこぶ。」
「やだよ、何言ってんだい。」
 いつもの習慣でそう言ったのに、はっきり嫌だといわれて男はショックを受けた。しかし笑ってそう言われたのがよく解らなかった。



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