女の腐った様な奴。
 それが木村平悟の別の名前であった。誰かが命名し、その名前が浸透すると治吉もやたら彼に近付けなくなった。兵としてまともに戦えない彼は、上官の、そして周りのいいからかい相手になっている。だがしかし、必要悪とはこの事をいうのだろうか。そういう事をしなければ彼らもやり切れないのだろう。どんな形でも、一銭五厘、葉書一枚の値打ちの命を、確かなものにしたいのだ。心の中では平悟を心配してはいても、治吉にはそれを止める事は出来ない。平悟は、死んで相討ちする事すら出来ない役立ずと蔑まされても、平気な顔をしてただ必死で咳をこらえていた。一つでも咳をすれば、またあの嫌な目で見られる。そしてどんな些細な事でもそれをきっかけに私刑が始まった。
 治吉は、ここに来ていつからか、ぐっすり眠れない様になっていた。眠っているのに外に意識があったり、何度も不思議な夢を見た。自分が死ぬ夢、家族が死ぬ夢、平悟が死ぬ夢、家が、街が壊れたり、自分一人だけ生き残ったり、米兵に捕まり拷問される夢まで見た。半分以上は夢だと気付いているのだが、決して自分の思い通りにはならない。夢だと解っていても恐ろしい夢。そして、女の夢も見た。名前も顔も解らぬ、ただほっそりとしたきれいな女は、夢の中なのに治吉を苦しめた。むろん誰にも言えなかった。女の夢など、言語道断だ。

「平ちゃん……。」
「やあ、治吉君。」
 久しぶりにまともに顔を合わせ、言葉を交わし合ったと思う。切なくなるくらいのささやかな夕食の後の、少しの自由の時間。一人、離れた所にいた平悟に治吉は声をかけた。
「……僕は、女は腐らないと思うけどね。」
「…………………。」
 自虐的に平悟は笑うと治吉は何も言えず、彼の姿を見つめた。彼は、日本にいた頃とはまた違う背中をしていた。肩に手を置く事さえ、はばまれた。
 二人はただ黙っている。さすがに南の島だ。日本では冬だが、ここは常夏でさわやかな夜だ。潮の匂いを運んだ風が頬をなでてくる。
「…………………。」
 平悟はふと思い出した様に、内ポケットから何か、本を取りだした。そしてぱらぱらとそれをめくる。
「平ちゃん。」
 どこに隠していたのだろう。見付かれば、ただじゃすまされない。いや、きっと殺される。それは、いわゆる聖書、であった。
 治吉は平悟がキリスト教徒なのを知っていた。彼の両親がそうで、昔からそうだったから何も思わない。ほとんど外国≠ニ戦っている為、今の日本のキリスト教徒は迫害されている。だが治吉はそんな事より平悟が信頼しているという事の方が大切だった。矛盾していたが、そうだった。
 平悟は治吉のいさめる様な声を無視して、海からの湿った、少し冷たい風を受け続けている。自分の言葉もそのくらいのものなのだろう。ひょっとしたら、彼にかかる全ての事も。
「治吉君、君は生きたいと思っているかい?」
 不意に、顔を上げた平悟は前を真っ直ぐ見つめ、口を開く。治吉は戸惑い、平悟の横顔を見、少し黙ってから答えた。
「……俺は、お国の勝利の為なら、死んだって構わないと思ってます。」
「僕に嘘は言わなくてもいいんだよ。」
 今度は治吉の方を見て、すぐに言葉が返ってきた。治吉は何も言えずに、しかし瞳をそらせずにいる。
「…………………。」
 治吉が黙っていると、平悟はふとほほえんできた。何故、こんな風に笑えるのだろう。
「……ねえ、治吉君。こんな風に生まれつき体が悪くって、……死んでしまう様な熱も何度か出て、いつでも死を覚悟していて、いつ死んでもいいと思っていて、……思っていて、それでも、ね。……それでも、この世界から自分というものがふっと消えてなくなる、その瞬間を考えると、眠れなくなる。眠ったら、二度と起きる事が出来なくなる様な気がして、……怖いよ。―――死ぬのは怖い。」
 平悟はかすかに瞳を閉じる。
「何故、自然に生きる事が出来ないんだろう。」
 そうつぶやいて、平悟は彼らしくなくすねて諦めたみたいに体を投げ出し、空を仰いだ。
「何故、花や草や木や、動物の様に何も思わず、ただひたすら生きに生けないんだろう。……人間は。」
「……解らない。」
 ため息の様な、独り言の様な言葉だが、治吉は深く考えずにはいられない。だが答えは出ない。
「……無理だよね、そうやって言いながら僕にだって、欲はあるんだから。」
 そう言った平悟の瞳が人間臭く、ぎらりと光った。平悟を聖人か何かの様に見ていた治吉はぎくりとした。意外だった。
「そうなの?」
「そりゃあ、人並みにはね。……人間の皮をかぶっているけどさ。」
 平悟はにったりと笑う。何だか複雑の様で、もっともらしい。平悟はふっと気合いの様なため息を放つ。
―――出る杭は打たれる。出ない杭は、腐る。」
「……そうだね。」
 自分は腐る側の人間だ。打たれるのが嫌で、ただ腐りゆく人間だ……。
 治吉は自分の手を見て、ぐっと拳を作った。平悟はむくりと起き上がり、握った手をかすかに震わせている彼を見つめる。
「言葉には出さなくても、君が本当にそう思っているのなら…君は生きて帰れると思うよ。」
「…平ちゃん、何が言いたいんだい?」
 治吉は平悟の方を見ず、たださえぎる様にそう言った。答えは君の中にある。君が知っているとでも言うかの様に平悟は黙った。その沈黙の、居心地の悪さに治吉がたまらず平悟の方を向くと、平悟は治吉の目に自分の目を合わせ、口を開いた。
「治吉君、これを預かってくれないか。」
 平悟が聖書を差し出すと、治吉は思わず呆け、手を開いて自分の意思とは別にそれを受け取る。受け取って、これが見付かってしまえばどうなるか解らないのに―――、平悟の瞳に、逆らえない。彼が受け取ると、平悟は優しくほほえみ、それからうつむいた。
「……僕は生きて帰れない様な気がします。」

 増田治吉がこの島に来てから何日が経っただろう。その場のたわむれに上官が様々な遊びを考える。その標的はもちろんほとんどが平悟だ。彼は体が弱い為に戦闘には一度も参加していなかった。軍医からも同情される事なく蔑まれ、常に彼は一人であった。
 治吉は、今や軍国主義の日本にほとんど洗脳され、敵を殺す事、自分が死ぬ事など何も思っていなかった。感情が何かで麻痺している様だ。恐ろしいのはそれに気付かない事。敵という事で人を殺し、殺せなかった敵に強烈な悔しさを感じる。それはゲームだ。後ろから人を撃つのもほとんど快楽だった。戦争という中、命のやりとりこそが生きている証。そうしろ、それが正しいと言われ続けていたのだ。日本には武士道という独自の道徳がある。主人に、志に仕え、一生つくす。青年達の、ある種その流れを汲んだ真っ直ぐな思いは、歪んだ思いに利用され続けた。
 しかし治吉は、平悟と目を合わせる事が出来なかった。

 サイパンに、まだ米軍の侵略はない。だが戦況は確実に悪化している。目に見えぬ、不安。恐怖。志気を高める為か、それらをやり過ごす為か……、上官は人の命を扱い、奪う事を幾度となくした。自らは殺される側ではなく、殺す側にあるのだと、支配しているのだという事を、どうしても誇示したかったらしい。今もまたここに整列させられている。そしてその前には、一人の男が木にくくりつけられている。現地の人だ。男は目と口をふさがれていた。何かわめいているが、解らない。口をふさいでいる布には沢山の泡や唾液が付いていた。この男を殺せと言うのだろう。上官はそれをさせる人間をうろうろしながら選考している。そして一人の前でぴたりと止まった。
「木村平悟!……お前がれ。」
 だが平悟は微動だにしなかった。真っ直ぐ目を向け、細い体で精一杯立っている。それがたまらなく上官の気をいら立たせた。
「貴様!上官の命令に逆らう気か!」
 上官の手に持たれた銃剣は、平悟に向けられる。しかし平悟はそれに怯える事もない。ただ真っ直ぐ受け止めている。上官は完全に頭に来た。銃剣の柄で平悟の鳩尾みずおちにこれでもかときつい一発を喰らわす。体のやわい平悟の体は簡単に吹っ飛び、ごろごろと転がる。声は上げなかった。上官は従わない平悟に対し、柄で、足で、執拗に彼を苦しめ続ける。その尋常でない姿に周りは恐怖を覚え、ただ身をこわばらせて立つしかなかった。それほど平悟に対する私刑リンチは長く続いた。治吉はその光景に目をそらしたかったが、そらすと自分がどんな目に合うのか、それが恐ろしかった。
「……ちっ……、女の腐った奴のくせに、強情だ。…増田治吉!」
 急に名前を呼ばれ、一瞬真っ白になり、そして混乱する。
「木村の代わりに、お前が殺れ!」
 矛先が自分に変わった。ここで戸惑えば、引きずっている怒りのせいで殺されてしまうかもしれない。だが治吉はすっかり固まってしまった。木に縛り付けられている現地人の情報は、目を隠されている為、耳から入るものだけだが、日本語が解らない分、危機感が強かった。恐怖で自然、体が萎縮してくるが、後ろの木がそれをさせない。
「貴様も木村の様になりたいか!」
 その瞬間目が開き、治吉の中の何かが弾けた。手が勝手に銃剣を取り、そして全力で突っ込んでいった。
「あああああああああああああああああっ!」
 銃で撃つのは違う。鈍い感触が腕を伝った。ゾッとする。
「あああっ!」
 二度目。叫んでいるのは気合いの為ではない。相手の声が聞こえない様にする為だ。
「うあーあああ!」
 三度、四度、………。必要以上にそうした。気が狂ってくる。ほとんど、そうしている自分と、それを見ている自分がばらばらで存在している様だった。
 ただ、必死だった。




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