その夜、木村平悟は激しく咳き込んで、血を吐いた。肺からの血だ。誰からも哀れまれる事はなく、手厚い看護も受けられぬまま、そのまま彼は息を止めた。
 体は日本に持っていけない。だがそこで立派な墓が作れる訳でもない。そして上官は邪魔になるからと、当然のごとく平悟のお骨を作る事を許さなかった。死体をただの穴に死体を放り捨てる。そこは墓場らしくなかったが墓場だった。幾重にも重なる肉と骨を見ていると、違う意味で死にたくないと思う。そしていずれこの骨達は適当に寄せ集められ、何処かの家族の元へ送られるのだろう。だが彼の体を捨てる前に、せめてこころは日本に連れて帰りたいと思い、治吉は平悟の小指を切り落とした。そして一人で落ち葉を集め、それを焼いた。煙はまるで彼の命を象徴するかの様に、細く、細く空に還っていった。そして骨を空の薬の缶にしまい、懐に入れる。骨はからりからりと小さな音を立てた。涙は、こぼれなかった。
 彼の生々しい死は、まるで自分への罰の様であった。
 そして平悟がいなくなって治吉が気付いた事は、自分が一人だったという事だ。実際に側にいなくても、平悟は治吉と一緒にいた。治吉も平悟と一緒にいた。自分でもずいぶん間抜けな話だと思うが、それは平悟がいなくなってようやく初めて気が付いた。平悟がいたからこそまだ完全に腐ってはいなかった。打たれるのは嫌だが、ただ腐るのも絶対に嫌だった。
 治吉は、どこにもなじまなかった。
 懐の中の平悟が、からんと何かを語った。

 米軍は、日本が降伏せずに国民の最後の一人まで戦う事を恐れていた。どんなやり方をしても日本が勝つという事はないだろう。国土も、人口も技術にも格段の差がある。だが、日本の精神だけは何ともしがたい。それにより、言葉通り殲滅をしなければならないとしたら、こちらの犠牲も多くなる。と、なると一気に真ん中を叩いて攻め込むしかない。そして、本土攻撃を決める。だが当時の航空機技術ではアメリカ本土から燃料補給なしで日本にたどり着く事は出来なかった。狙われたのは、南の島々。
 昭和十九年、六月。米軍がサイパンに上陸した。マリアナ沖で海戦となり、日本軍は空母の大半を失った。まさに集中砲火。米軍は日本軍が一年間で撃った砲撃の量を、わずか四日のうちにサイパンで使った。前線はあっという間に押され、北へ、北へ。そして七月。サイパン島日本軍玉砕。八月。グアム、テニアン日本軍玉砕。捕虜にはなれない。捕虜になる事は恥だった。兵として連れてこられて皆、覚悟はしている。生きては帰れない。生きて帰れば世間の目がある。必ず帰ると言いながら、必ず帰りたいと願いながら、死ねない事を悔やんでしまう。捕虜になればいつか解放される時が来るかもしれない。だが、生きては帰れない。
 天皇陛下、万歳。そう口にする者はいなかったという。上官の前でだけはそういう事を言って死にに行った者はいただろうが、父の名を、母の名を、そして好きな女の名を心で叫び、涙しながら震えて死んだ若い兵士はどれほど多かった事だろう……。
 治吉は逃げた。死を目の前にした時、体が勝手に回れ右をして全力疾走してしまった。唾液が勝手に口からあふれ出し、膝ががくがくと音を立てる。そして何処だか解らない場所で体が崩れ落ちた。手には一つ、手榴弾がある。これを使えば死ねる。これを使えば死ぬ。死ぬ。―――――死。
 人を殺した。人が死ぬのを見た。人だけではない。犬、猫、鼠、魚……。魚のあのぎょろりとした丸い目を、何かなるものだと口には出さず、ずっと気味悪がっていた子供の頃が何故かはっきり思い出された。何処にでもあって、とても身近なはずの死。幾度となくその場面に遭遇してきたはずなのに。
 ピンに指をかけてみる。これを抜けば終りだ。すっと汗が引いて手が激しく震える。思わずピンが抜ける気がして、慌てて左手で押さえつけた。
 ―――――俺は、何をやっている?
 ひとりでがたがたやっていると銃器を手に持った米兵がやってきた。そして強い口調で降伏を迫った。日本は終りだ。お前達の負けだ。戦争はもう終ったと。言葉は解らなかったが、そういう様な事を言われているのだけは、解った。
 ……今だ。今抜けばいい。今抜いて何人か道連れにすればいい。今だ。今だ。死ぬのは今しか――――――
 だが彼は土をなめた。引き倒され、頭を押さえ付けられて手を縛り上げられる。
 そして、治吉は捕虜となった。
 米軍の教えが生きて帰れ、だったのに対し、日本軍の教えは恥をさらしてまで生きるな、だった。その考えの違いは米兵には解らず、日本人は不気味な民族であった。だが治吉は、その上で解らない日本人であったといえる。初めは、捕らえられたふりをして、死なば諸ともという作戦だと疑われた。しかし死なないニホンジンはあっさりボディチェックを受け入れた。そしてそれで出てきた物を見て米兵は納得した。
 日本語はよく解らないが、それは聖書だった。キリスト教では自殺を許していない。だから治吉が死ななかったと思われたのだ。
 しゃべっている言葉は解らない。聖書をめくり、何やら話してこちらをちらちら見る米兵。治吉の数少ない持ち物。家族の写真、水筒、飯盒はんごう、短剣、平悟の骨、そして聖書。べたべたとさわられ、何だかひどく汚されていく気がした。聖書をめくる音が耳につく。
「それは、俺のじゃない!」
 今までおとなしかった治吉が、急に声を張り上げた。彼は、泣いていた。
「それは、そこにある骨の…主の……、持ち物だ!」
 日本語の解る米兵がちら、と薬の缶に入っていた白い物を見る。そしてぼそぼそと周りに通訳した。
 治吉は、ただふんどし一丁でおろおろと泣いた。
 ……負ける。日本は負ける……。

 後から考えればそれは終戦のちょうど一年ほど前の事だ。日本は破れかぶれに、ひたすら無茶をし続けた。グアム、テニアン日本軍玉砕の二ヶ月後、十月。米軍のフィリピン上陸作戦対抗の為、神風特別攻撃隊が編成される。彼らは敗戦を認めない愚かな国の作戦の為、爆弾を積み、行きだけの燃料を入れ、そして真っ直ぐ突っ込んでいった。矢の様に飛ぶ航空機。瞬間、爆発、爆音と、静寂。それはほとんど届く事なく打ち落とされてしまったという。そしてその中には敵機を見付ける目として、幼い子供まで同乗させられた。
「ニホンジンはわからない。いのちがおしくないのか……。」
「……………………。」
 昔だったらどう言っただろう。ある米兵が尋ねる様につぶやいたその言葉に、治吉は何も答えなかった。
 ハワイ諸島からマリアナ諸島へやってきた米軍は北上して硫黄島へ。昭和二十年三月。硫黄島日本軍玉砕。そして米軍はそのまま西に下る。四月。米軍沖縄に上陸。二ヶ月後、六月。米軍、沖縄を占領。そして八月六日。広島に原爆投下。八月九日。長崎に原爆投下。その六日後。ラジオからの玉音ぎょくおん放送。
 ――――終戦。

 日本は負けた。それを米兵に聞かされても、治吉は大して驚かなかった。もう、どうでもよかった。聖書を持っていた事が幸いしたのだろうか、治吉は早々に日本へ返してもらい、捕虜生活を終えた。かつて住んでいた所へと彼は行くが、そんな場所はなかった。東京大空襲で全てなくなっていたからだ。そしてそれから、国に忠実に従ってきた者達が戦犯として裁かれ、ずるいお偉方が皆逃げても、治吉は何とも思わなかった。
 こんな、ものだったんだ。

 治吉の手には平悟の聖書があった。
 君は生きて……。
 平悟の声が、頭に響く。
 僕は――――……。
 戦争を生きた聖書はぼろぼろだった。それをめくり、初めてきちんと見る。自問なのか、治吉に問うているのか、様々な覚え書き、走り書きがしてある。
 僕は、人を殺してまで生きたいとは思いません。
 日本が勝とうが負けようが僕達には関係ありません。
 一体、何が残るというのでしょうか。
 端の余白に細かく書かれた、平悟の凛とした字。今ならその意味がはっきり解る。
 治吉君、生きて下さい。
 心臓が跳ね上がる。それは一番後ろのページの、全て余白の所だった。
 治吉君、生きて下さい。これを見ている君は怒るかもしれないが、僕は駄目な気がします。ここの所、上官の私刑で本当に体調が悪いのです。不思議なもので、よく解ります。僕はどうあっても長くないでしょう。怒らないで下さいね。僕は一つとはいえ、君より年上のくせにいつも君に支えられてきた。ありがとう。君になら包み隠さず全てを話す事が出来た。君はキリスト教徒ではないから、この聖書をあげるつもりはない。
「ただ、返そうと思わないで、ずっと預かって下さい。」
 ――――さようなら。
 急にゾッとして鳥肌が立った。
 何もない。
 何もない。
 何もなかった。
 何もかもなくなった。
 ……怖いよ。―――死ぬのは怖い。
 平悟の静かな声が、脳味噌を突き破るみたいにがんがんと響く。花や草や木や、動物の様に何も考えず、ただ生きに生きる事などもう出来ない。役目のなくなった杭はどうすればいいのだ。どうなるのだ。掘り出されるのか、壊されるのか、放っておかれて腐り続けなければならないのか。
 何故俺は生き残った!何故俺は罪悪感を感じなければならない!―――何故!俺だけ!

 一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くのを結ぶべし。
「そんな風に死にたいよ、僕は。」
 解らないよ、……平ちゃん。
「仏教でいうところの一殺多生いっせつたしょうだね。……ううん、仏教とかキリスト教とか、そんなのは全然、大した事じゃないんだ。」
 救われたいんだよ。……ただ。
 死にたくないよ。
 そんな風に死にたい。
 救われたい。
 ……それでも、まだ。
 どうせ死ぬなら。
 ただ、生きに生きて―――――

「俺ァよ、あの時で止まってるんだ。俺が全てから切り離されて、時間だけが俺の周りを過ぎ去っていった気がするよ……。」
 疲れた様に、不意に老人が独り言をつぶやく。旦那は困った様に軽く肩をすくめた。老人はすっと旦那の方を見て、どこか思いつめた様に話をする。
「悪ィが俺ァ、何も言わねェ。あんたも黙ってそいつを受け取ってくれ。壺はタダだ。くれてやる。」
「………ようがす。これは受け取りましょう。でもその壺は受け取れませんね。持って帰って下さい。」
 旦那は深くうなずくと、急に突っぱねる様にそう言った。
「ふん……。」
 老人はわざと顔をひきつらせ、悪っぽくそう言った。
「ま、温かいうちにお茶飲んで、羊羹も片付けちまって下さい。」
 旦那はそう言い、うながす様に自分から手を出す。
「すまねェな。」
 老人は芋羊羹をほおばるとつぶやいた。旦那は、それに気付かないふりをした。
「……また今度、むつみちゃん連れて、来て下さいな。」
「ああ。」
 老人と旦那はそれから何も言わなかった。老人は不意に席を立ち、どこが悪いのか解らない体を、かたん、かたんと揺さぶりながら帰っていった。
 旦那と老人が飲んだお茶を片付けに、空光が店の方へとやってくる。彼には、旦那が聖書を受け取った理由が解らなかった。解るのは、旦那の様子がいつもと違う事だけだ。
「………旦那?」
「何です?空光。」
 そう言った旦那はいつもと同じ調子だ。空光は、湯飲みやらを片付けながら、ちらりと聖書を見た。
「……いや、俺にゃ解りやせんから。」
 そう言う空光に旦那は真っ直ぐ瞳を向ける。
「大将、見たでしょう?」
「………ああ……。」
 そう言ってくれると解った。老人の背中は小さい。もう間もなく消えてしまうだろう。
「親友の願いが叶わなくなるから…、誰かに託したかったんでしょうね。」
 旦那は聖書の表紙をざっとなでた。
「それがアタシなのは、嬉しい限り…ですがね……。」
 そう言ってしばらく黙ってから、旦那はもらす様に笑う。
「うちは回顧%Xでもありますからねェ。」
 空光は片付けを終えると帳場に旦那を残し、居間、そして台所に引っ込んでいった。
「旦那ァー、お茶のおかわりいりますかぃ?」
 空光の声が響く。旦那は帳場の後ろにある棚の中に聖書を入れると、声を張り上げた。
「はァい。用意して下さぃな。」

 ここは時が止まっている。


調べまくりましたが、かなり嘘っぱちです。
じいちゃんの手記を見て書こうと思ったもの。
ちなみにじいちゃんが行ったのは中国。
そこからしてすでに違います。
雰囲気重視でお願いします。(汗)



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