憎くてたまらない奴がいる。

 何故奴が生まれたのか、どうして生きているのか、ここにいるのか、奴の歩んできた人生そのものを呪う。
 そして、悔やむ。
 一体何故…、その奴≠ェ、自分≠ネんだろう。
 壊してしまいたい。全て。――――運命を……。
 だがどうして、まだ死んでいないんだ?

   花天月地 −かてんげっち−

 入り口のきしんだ戸が開き、春の冷たい空気と共に一人の、ぞろぞろと髪の長い者が入ってきた。
「いらっしゃい。」
 その者は、旦那の明るい声にも反応せず、帳場へ重い足を運んでいった。背は高くない。細い体。そしてその者は口を開く。か細い声。……少女だ。
「これを……引き取って下さい……。」
 そう言われて旦那が帳場へ目を落とすと、少女は一本の美しいかんざしを差し出していた。手に取って見ないでも解る。本物の鼈甲べっこうだ。
「あいにく…うちは基本的に買い取りはしないんでね。」
「いくらでもええんです。」
 旦那がその話を蹴ろうとすると、相手は慌てて食い下がる。何か訳ありなのだろう。そもそもの様子が変だ。しかし互いにその場を譲り合わず、沈黙を保っている。空光も気付いているだろうが、しゃしゃり出る真似はせず、奥からじっと様子をうかがっていた。
「こんにちはァ。…やァ、今日寒いですけど、桜凄いですよぉ。」
 不意に誰かが入ってきた。客同士が重なり合うなんてめずらしい。新しく入ってきた者は帳場の近くまで来ると先客の存在に気付き、おっ、と足を止めた。近所の者でも親しい者でもないという事はその場の空気で解る。
「いらっしゃい、先生、公園の方まわってこられたんですかぃ?」
 旦那にそう言われると、その者は幾分か安心した様に話し始める。
「ああ、ええ旦那さん。しばらく暖かかったですし、うわーっと咲いてますよ。……えーとそれで今日は、僕、ちょっと今度の小説の資料集めに東北の方まで行ってきましてね、それのお土産を……。」
 男は肩から掛けていた鞄から、わりと大きめの瓶を一つ取り出す。イカの塩辛だ。
「あァー、すみませんねェ、悪いですねェ、…と言いながらしっかりもらうつもりでいますけど。」
「はは、いいですよ。僕も海老で鯛を釣る予定ですから。」
 そう言って男は、ちら、と先客の方を気にした。何者なんだろう。本人の前で旦那に聞く訳にもいかない。旦那はその様子を見ると、わざとらしく口を開いた。
「うちは基本的に買い取りはやってませんからねェ、どうです?センセ、この人のかんざし≠買ってやってくれませんかぃ?」
「かんざし……?」
 話も解らないまま突然旦那に言われ、半分困惑した様に男は言ったが、その簪を一目見ると、彼の目はすぐに興味の色に変わった。
「ほー……、こりゃ本物の鼈甲ですか?」
 この目が確かであったら、逸品である事は間違いないだろう。偽物にしても良く出来ている。そして男がもっと間近で見ようと手を伸ばすと、持ち主の少女は突然簪の上に身をかぶせてきた。
「うわっ。」
――――――……!」
 今度は旦那の目の色が変わる。
「空光、空光!」
「はい。」
 彼はすぐに出てきた。旦那は、肩をふるわせて帳場に伏している少女の背中ををそっと抱き、そのまま身を起こさせると空光の方まで歩かせた。
「空光、先生にお茶をお願いします。その人にもね。そっちで落ち着かせて下さい。」
「いやァ、僕はもう………。」
 先生と呼ばれている男は、まずい所に居合わせたな、と思いながら早々においとましようとする。
「気にしないで下さぃな。お茶くらい飲んでいったって、ばちは当らないでしょう。」
 そう言われると、断る事は出来なかった。結局、まァお茶くらいなら、というところに収まる。
 ここに来るたび飲んでいるが、出されるお茶は絶品だ。一口飲んで、大きく息をはいた。あの見た目が不良の空光が淹れたとは思えない。茶葉がいいのかと思って同じのを買って自分で淹れてみたが、どうしてもこの味にはならない。おかげで茶腹になった事もある。
「いやー……。うまいですねェ、落ち着きますよ、ホント。」
「ま、豆もつまんで下さいな。」
 さっさと帰る事を忘れ、男はすっかり落ち着いていた。お茶のやわらかな香りが漂っている。

「……お茶、ほっとくと冷めちまィますぜ?」
「……………………。」
 空光が声をかけても少女は何も言わなかった。何も言わず、簪を握りしめている。何かに必死で、自分を保っている様子だったが、何に必死だったのか、何から自分を守りたいのかは空光には解らなかった。
 お茶は冷め、とうとう匂いもしなくなった。
「…………………。」
 先生と呼ばれていた男が帰り、旦那が居間へとやってきた。帳場から居間へはふすまが一枚あるだけで本当にすぐだ。旦那はおもむろに少女の横へ正面向いてきちんと座ると、話を切りだした。
「お前さん―――…、それを捨てたいなら捨てればいい。壊したいなら、壊せばいい。けど、それをするのはお前さんだ。……アタシの言ってる意味、解るだろ?」
 しかし少女は黙ったままだ。
「お前さんだったら、解るはずだ。自分が今、どんな立場にあるのか、その簪が何を意味して、どういう役割をしているのか。……だからそれを捨てたいんでしょう。」
 少女はその言葉に耐えられないのか、どんどんうなだれる。そして小さな声がもれたかと思ったら、滴が強く握られた手にかかった。しかし声にしては泣かない。時々むせるが、必死で耐えていた。
「空光……。」
 旦那は少女の方を見ながら空光を呼ぶ。
「へェ、何ざんしょ。」
「お風呂、湯は残ってますかぃ?」
「もうぬるいとは思いますがね、ありやすぜ。」
 この家では風呂の中に炭を入れ、何度も湯を利用していた。そしてもちろん洗濯やらなんやらに、最後の最後まで使っていた。旦那は軽くうなずく。
「来なさいな、少年=B」
 頑固で、てこでも動かなそうだったのに、少年≠ヘ旦那に操られる様、ふらふらとついていった。空光も、何も言わずにその後ろをついていく。
「まァ、とりあえず服を脱ぎなさいな、その髪を何とかしましょ。長いままにするにしても、ちょいと切らないと。それじゃあンまりにもみっともない。」
「…そりゃ俺に対しての嫌味ですかぃっての。」
 空光が顔を横に向け、下唇を突き出してぼそりとつぶやく。そして正面向いて旦那に話を切り出した。
「旦那ァ、しかし髪を切るって……。髪は神に通じやす。やたら滅多切るのは……。」
「かめぃません。」
 少年はべらんめぇ口調でそう言う。どこだか偉そうだ。だが少年は服を脱いではいない。どこかそうするのをためらっている様に見えた。
「……ですって、空光。アタシたち≠ヘそんな立派な神様じゃないですからねェ。神だと名を借りてますが、どっちかってったら霊です。お前さんも神というには微妙でしょう。」
「ま、それは……。」
 空光は口をもごもごさせる。彼が黙ったのを見ると、旦那は少年の方を見る。無言の少年から何を見取ったのか、旦那はかすかに眉を寄せた。
「……髪切る以外、別に何もしやしませんよ。あ、空光、ゴミ箱持ってきてくれませんか。」
「へェ。」
 そうして空光が席を外す。すると二人だけ、という事に安心したのか少年が自ら口を開いた。
「貴方様も……、そういう$lなんで?」
「…………。名前は、何ていうんです。」
「名前……。」
 質問に答えてくれなかったのも気にしないで、少年は確かめる様につぶやく。
「それをただ、アタシを表すもの、とするなら……。」
 少年は、しばらくの間、全く押し黙ってから答えた。
「アタシは、花月かげつ………。」
「そうですか、アタシは九十九。旦那ともいわれてますがどちらも通称です。よければ凪些と呼んでもかまやしません。お前さんが源氏名≠フ様に、アタシは雅号がごうです。」
「………………。」
 全てを見透かされてそう言われても、何故か不快な気持ちはしなかった。あんまり全てを知られているという気がしなかったからだ。知られたくないと、思い出したくないと心の底の底の奥深く、どこかにひた隠しにしてきた事だったが、旦那に言われても過去の傷は開かなかった。
 そして少年、花月が服を脱ぐと、旦那は彼を座らせ、その長い前髪をかき上げた。
「ほー…、これはこれは……。」
 体付きだけではなかった。少年は顔付きも少女と見まがうほどの美童だった。だが、その表情はどこか冷淡で厳しかった。



雅号:文人、学者、画家などが本名以外に付ける名。



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