「歌はもういい。」
 ふとばちを持つ手を骨太い手がさえぎってくる。
「へぇ。」
 そう返事した者の膝にあるのは三味線だけではない。誰か、男の頭があった。その者が歌をさえぎってきたのだ。おもむろにその男は起き上がると、三味線を弾いていた者に抱き付いた。しかし抱き付かれた者は別段身を固くする事はなく、むしろ、しどけなく力を抜き、ゆっくり体を預ける風にしてほほえんだ。
「旦那、酔うてはるんどすか?」
「…酔っちゃねェよ。」
 ここは薄暗い、茶屋の二階の一室だ。もちろんそこは遊山茶屋で、岡場所であった。
「そういえばお前、舞台には立たないのか?」
「へぇ、今の女形おやま若衆役わかしゅやくも立派な贔屓が付いておりまして…。それとも旦那、前髪ない方がお好きどすか?」
 男は転げる様に布団に押し倒し、その者の耳辺りに軽く息を吹きかける。どこかじゃれ合っている感じであった。旦那と呼ばれている若い男は、美しい振り袖に袴姿のその者の前髪を触り、首元に手を当てる。
「まァ、お前が出たら他の奴らがかすんじまうからな。」
 本当はこの男が後押ししたら、きっとその者は舞台に立てるのだろうが……。そう言いながら、男は首元に当てていた手を、ゆっくりと下へ、服の中へと滑らせていく。ぴくりと、そうされている者の体が動いた。だがふと男は、とろりと、かすかに泣く様な表情を見せるその者をやけに冷めた目つきで見る。
「ホントは……お前……、こんな事したくねェんだろ。ただ舞台に立つ事だけを思ってる。」
「……旦那…!そんな、恨みます……。」
 本当にそう思っているかの様にその者は言った。そしてそれが本物であるかの様に、表情を辛く変える。
「花月……、いいんだぜ、俺ァよォ。……お前が女だったら、お内儀かみにしてやるのに。」
 男は、本当に酔っぱらっている様であった。独り言の様に、ぶつぶつとつぶやいている。だがこの花月と呼ばれた者は、あくまでもきちんと言葉を返していく。
「てんごうて……。」
「本当に、冗談てんごうだと思ってるのか?」
 花月は悲しい様な困った様な瞳で目をそらす。
「俺は、お前を落籍ひかすつもりでいるぞ。」
 男は花月の顔に手を当ててこちらを向かせ、しっかり瞳を見つめた。すると、この花月という者はまどろみ、溶ろけた様なうるんだ瞳を返す。
「……政常まさつね様……。」
 花月は片足を立て、政常の首に腕を絡ませていく。
「ああ、本気にしますえ……。」
 耳元でささやく様にそう言われると、政常はたまらなくなる。力を込め、強く花月を抱きしめた。
「……花月、花月……!」
 そう言って、政常は乱暴に花月の服を引き剥がした。花月はもう待てないみたいに政常の胸を開かせ、服ごと絡んでゆく。背中の張った筋肉すじを指の一本一本で確かめながら、肩越しに花月はいやに冷めた目をする。冗談でなければ、何なのだろう。おんな≠ナあれば。女であれば何だというのだ。所詮たわごと。酒の上での戯れ言。金があっても落籍させ、家を買い与えて妾にする気などないだろう。真の花ではなく、時分の花。若衆としては散り際の自分を、ずっとこれからも面倒を見てくれるはずなどない。花月はいまいましそうに爪を立てた。だがその感触も政常にとってはただのいやらしい感覚にしかならない。政常は花月の桃色の肉を丹念にまさぐる。それはかすかに露を帯びた、ひとひらの花びらの様だ。しっとりと、温かく張りがある。そしてうぶで、敏感だ。
 だがその真の内側で裏切り続けている……。政常は、そう思った。思いながら、離れられずにいる。絵から抜け出てきた様な、物語の上の美少年そのままの様な、この彼から。ことに、すでに没して久しい井原西鶴いはらさいかくの好色物の、あの少年達に似ていると政常は密かに思っていた。好色一代男のあの色道ふたつ≠フ気持ちがよく解る。とはいえ、自分は五十四になるまでに女三千七百四十二人、少年七百二十五人と付き合えるとは思わないが。
 似ていないのはその背負っているもの。暗い、夜より闇より暗い、その、陰だ。
 その仕事は、その仕事をする者は陰間かげまという。女歌舞伎や若衆歌舞伎が風俗を乱すとし、承応じょうおう元以降、新たに作られた野郎歌舞伎。前髪をそり落とした野郎頭の男だけが舞台に立ち、まだ前髪を剃り落としていない、つまりまだ舞台に立てない若衆少年は、陰間、陰舞かげまい陰子かげこといい、宴席に侍して男色を売ったりした。江戸時代後期には歌舞伎関係者でこの経営に関わる者が多かったという。

「……お前の上方かみがた語は安心するな。」
 用が済み、布団の中でからまり合い、暖まりながら政常がそう言った。
「……そうですかぃ?」
 花月がどこか呆けた様にそう言葉を返すと、政常は喉の奥でくくっと笑った。
「微妙に中途半端だがな。―――そうだ。」
 そう言って政常は体をほどくと、枕元に脱ぎ散らかした着物の中から自分の着物を引っ張り、その袖に入れていた何かを取り出す。
「これを、お前にと思って買ってきたんだ。」
 そう言って政常は花月の髪に何かをした。初め花月はそれをこうがいだと思う。笄は女の髪の装飾用としても使われている物だが、それとは少し違う形の物は、髪を整えたり、ちょっとかゆい時になど男女関係なく使う物だ。だが花月はそれを抜いて見て驚いた。笄ではない。簪だ。
「……旦那……、アタシは男ですえ?」
 政常の方を見てそう言うと、花月は簪をよく見つめる。
「しかも…、これ、本物の鼈甲じゃあ……。」
「粋だろ?お前にしか似合わないと思った。逸品物で、それしかなかったんだぜ。」
 政常は得意そうに笑う。そして乱れた花月の髪をなでた。花月には女を強調させる為か、それとも花月≠強調させる為にか、中剃りすらない。詳しい年齢は解らないが、本当なら前髪を落としてもいい頃だろう。
「もらっておけ、どうせ店の金だ。」
 政常は筑波つくば屋の一人息子で、名代なだいの遊蕩者だった。花街を歩き、毎夜遊女を替え、酒を浴びて、さかなを喰らう。そして今はここにいる。だが彼は勘当される事はない。変に人望があるからだ。
「……旦那は、でも、また何処かへ行かはるんやろ。」
「お前だけだ。…これからもずっと。」
 息をつく事すら許さない真っ直ぐな瞳を突き付けると、やけに真剣にそう言って政常は花月の首に自分の腕を絡ませた。何ともいえない、熱い相手の肌の感触。すると互いに息が荒くなり、花月の腹筋がぴくぴくとひきつってくる。そして彼は誘われるまま、再びゆっくりと足を開いた。
 花月は、死んだ様な目で薄暗い天井を見た。

 何も、望んで身を落とした訳ではない。好きで体を売っている訳ではない。そこには、矛盾とも、悪循環ともいえる理由があった。彼はいつまでも舞台に立てず、こんな所にいるのなら辻芸人に身を置いた方がましだとも思っていたが、何故か、ここから離れられずにいた。ふと、花月は横にある鏡に映った自分を見る。
 惚れた目をしなければならない。だが本気になってはならない。愛している時にするべきだろう態度を取らなければならない。だが溺れてはならない。
 鏡には造作の整った花月の顔がある。彼は正座をしたままざっと鏡に近付くと、鏡の縁をつかんでそれをまじまじと見つめた。彼は鏡に映った自分の姿をそっとなぞると、急に睨むみたいな冷淡な視線を向ける。
 花月にとってそれは簡単であった。彼は誰も本気で愛せないと思っていた。そして、本気で愛される事も。彼は基本的な愛情にすらふれた事がない、といっても過言ではなかった。
 そんな生き方をしていた。そんな生き方をしてきた。そんな生き方しか知らなかった。
 ただ何となく生きているだけで、彼は生きてはいない。自分を嫌い、憎み、いつ死んでも構わないと思いながらも彼はずるずると生き続けていた。



遊山茶屋:あそべる£ラョ。ここでの茶屋とは休憩場ではなく、飲食、遊興を業とする店の事をいう。芝居茶屋や相撲茶屋、そして引手茶屋、陰間茶屋…云々。
岡場所:公認されていない遊郭の事。
女形:歌舞伎で女役、もしくはそれを演じる役者の事。
若衆役:歌舞伎で美少年の役、もしくはそれを演じる役者の事。
てんごう:冗談。いたずら。
落籍:年期を定めて、身を売った芸妓、娼妓の借金を払って妓籍から抜き、妻妾にする事。身請け。(文中では落籍ひかす。)
上方:明治維新以前の首都は京都な為、京都およびその付近を指す言葉。
野郎頭:前髪と頭部を剃り落とし、髷を結った男の髪型。
中剃り:前髪を残して頭部を剃った少年の髪型(若衆髪。)の剃り落とした部分。
辻芸人:大道芸人というより物乞いの印象が強い。卑しい者の職業だった。

差別用語と思われる言葉が出てきますが、意向によりそのまま表現させていただいています。



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