「……何故、アタシは生きてるんでしょう。」
 ざっと音がして、少年の前髪が落ちた。
「その簪がある限り、お前さんは生きるでしょうね。」
 少年はそう言った、自分の髪を切っている男をちらりと見つめる。そんな事を聞いているんじゃない。そもそも自分は答えて欲しくて、答えが欲しくてそう言ったのでもない様だ。長い、長い髪がほどけるみたいにぱらぱらと落ちてゆく。少年は目を細めた。軽くため息をつくと髪を切っている男はふと口を開く。
付喪神つくもがみ。……多分まァ、その中に入るんでしょうね。アタシはそう呼んでます。大切にされてきたのに捨てられた物が、それを恨んで百年を経、思いが宿るとか……。九十九年で思いが宿るとか、他にも色々説がありますけどね。…別に私達は百だの九十九だの決まった年月で目覚めた訳じゃありません。―――じっとりと、物は、自分の思いをはぐくんできた。この世に強く未練を残している持ち主の魂が、その思いに触発されてそこに入るのか。それとも物の、持ち主に対する強い未練が、その者の魂を取り込んでこの世にとどめているのか……。アタシにはそれは解りません。……ただ……。」
 旦那は少年の頭をなでる様に切った髪を払い落とし、また細かくそろえてゆく。
「お前さんの媒体ばいたいとなっているのはその簪です。解っているとは思いますがね、壊せば、お前さんは肉体を失って消滅しますよ。」
 簪を放そうとしない少年の手に、切られた髪の毛が沢山かかっている。少年は眉間にしわを寄せ、簪を強く握り直した。それは、何度も何度もやろうとしたのだ。
「それが出来ないんでしたら、永い時を生きるんですから目的の一つや二つ、作って叶えて、探したっていいでしょう。そも人間だって何の為に生きてるのか解らないんですからね、生きる目的を探す為に生きたって構わねェでしょう。」
 あっさりと、何だか夢の様な理想を男は言った。何度も試みた。何度も挑戦した。だが無理だ。決め付けている気はない。一体、自分がどれだけ苦しんだか解るのか。自分の今までの過去を語るつもりはないが、少年はこの男に対してちらりと憎しみを覚える。しかし男はにっこりと笑いかけてきた。
「……ここ≠ナ。」
 いきなり、優しく強く抱きしめられた様な気がして、花月という少年はここの主人を真っ直ぐ見つめる。相手も自分をしっかり見つめていて、まるで親の様に広く、包み込むみたいにやわらかくほほえんでいた。しばらく花月は呆然としていたが、突然感極まり、裸のままぴったりと床に手をついて頭を下げた。
 この人だって、そうだ。仲間なのだ。きっと、何か深い思いを抱えて死に切れぬ、そんな人なのだ。思いが深いから、あの時自然に泣けたのだ。花月は下げた頭を、また深く下げる。
「よろしゅ…、おたの申します。」
 旦那はしばらくそれを受け入れていたが、彼がなかなかおもてを上げないので肩を支えてやって起こさせた。
「顔をお上げなさいな。滅多にそんな事するもんじゃありませんよ。」
「へぇ、……旦那…。」
 顎を上げた花月の表情は決して明るくないが、憑き物の落ちた様なすっきりとした顔をしていた。答えを、心を決めたのだ。旦那は、しばらくそんな花月の顔を眺めていた。
「…ところで、花月ってのは花鳥風月からですかぃ?」
 旦那は風呂の腰掛けを花月に勧めながら、何気なく彼に話しかける。
「いえ、多分…能の……。」
「ああ、能の―――……。」
 花月が話にのってきてくれたので、旦那は安心した様に明るくそう言った。だがそれを言いかけて、思わず口をつぐむ。過去が、能の一つの花月≠ニ多く一致するのでそう名付けられ、多分彼のいた所では全てその関係の名前が付けられていたのだろう。花月は剃刀かみそりを持ったまま止まってしまった旦那の方を振り返り、じっと瞳を見つめた。
「ぴったり、でっしゃろ?四番目物、ざつ物の所とか。」
 花月はどこか悪態づいた。四番目物、というのは正式の五番立ての演能で四番目にやる能の事である。初番目物は神が太平を寿ことほぐ舞を舞う能で脇能わきのう物といい、二番目物は武人の霊を主人公とし、戦いを題材にした修羅物。三番目物は美しい女を主人公にしたかずら物、五番目物は天狗や鬼を主人公にし、にぎやかで壮快なおもむきの物が多い切能せつのう。そのどれにも入らないのが四番目物で、世話せわ物、または雑物といった。そして花月は軽く息を吸いながらすっと表情を変え、姿勢を正し、声もぴんと張りつめる。
「そもそもこれは花月と申す者なり。ある人わが名を尋ねしに答えて曰く。月は常住じょうじゅうにして言うに及ばず。さてかの字はと問へば。春は花。夏は瓜。秋はこのみ。冬は火。」
 能の花月≠フ、少年花月が自分を名乗る時のセリフだ。旦那は軽く相づちを打つ。
「…そして。」
「因果の果でもある。」
 花月は眉を寄せて表情を変えた。隠れる事も、変わる事もない永遠の存在である、という意味である。皮肉な事に、ぴったりだ。本来民衆の中で生まれた能が貴族の眼がねにかなったのは、それが高尚な芸術だったからではなく、足利義満が稚児の世阿弥ぜあみの、一少年としての美しさに惚れ込んだからというのだからおかしい。
「空光の事、嫌わないで下さぃね。彼は天狗ですけど。」
 能の花月は、幼い頃に天狗にさらわれたという過去がある。旦那はどこか哀れむ様に、寂しそうにほほえむと花月も眉をひそめ、口を曲げながらそれでも笑うみたいな表情をした。
「さらってくれるなら、さらって欲しかったどす。……あの時、あの、世界から。」
 花月は自分の身を守る様に腹を抱え、腕を抱きしめた。彼は裸であったが、別に恥ずかしくはなかった。羞恥心がないのではない。相手がここにいる人だからだ。多分。旦那は、花月がどこか泣きそうな表情になっている事に気付くと、軽く考える様にしてから口を開いた。
「……花天月地…って知ってますかい?」
 声をかけると、花月は表情を泣きそうなものから変える。表情のない顔だ。人の目にさらされ、常に意識していた彼の、傷跡といえる切ない防御方法だろう。
「へぇ、春の花時の、月夜の景の事でしょう。」
「ちょうど、こんな時ですねぃ。」
 旦那はどこか話を変える様にそう言って風呂場の小さな柵付きの窓を見る。ここからは見る事は出来ないが、今日来た男の言った通り、満開なのだろう。覚えている、淡い露の花びら。儚げな白の清楚。
「美しい花ですよねぃ、桜って。咲き頃、満開、散り際に花嵐。どれも全て絵になる。厳しい冬の後のほほえみの様な……、きっと誰もがそう思っている。……桜に、そんなつもりはなくっても。それが、桜の宿運すくうん。」
「……………。」
「今度、花見にでも行きましょか。」
 旦那は静かにほほえんで、何ともいえない表情で落ち込む感じになった少年の前髪を整える様になでた。
相身互あいみたがい、ですよ。共に、生きましょう、花月。」
「へぇ、旦那…。」
 花月はどこか卑屈に、だがしっかり笑った。新しく、生きてゆけるかもしれない。……ここで。共に。そして何より、自分として。
 望もう。花が天を照らし、月が地を照らす世界を。
 少年の髪はすっかり短くなっていた。だがちゃんとした人が切っていないのでずいぶんずたずただ。しかしそれでも似合うから不思議だ。鏡で自分の姿を見せられ、少年は軽くなったうなじ辺りを触る。指が髪にからまる事も包まれる事もない。それから体に貼り付いた細かな髪を落とす為、旦那はぬるい湯を浴びせた。湯は本当にぬるい為、かけ終った瞬間ぞっとするくらい体が冷える。旦那はすぐに布をかぶせた。体と布の間の空気が妙にあたかく感じる。用意周到だ。
 花月は、布に身を包ませながら思う。先ほど旦那が言った言葉だ。持ち主の強い思いが物に入るのか、物の強い思いが持ち主を呼ぶのか……。
 答えを求めてか、花月はちらと旦那の方を見た。しかし彼は花月の着替えを用意している為、後ろ姿だ。花月の視線には気付かない。諦めたのか花月はぼんやりと簪を見、寒いのか布を顔元まで当てた。
 ……一体、この簪の持ち主というのは、誰の事を言うのだろう。そして、何故かんざし≠ネのか。
「かげつ。……花月。」
―――へぇっ。」
 何度も名前を呼ばれていたが、花月は呆けて気付かなかった為驚き、返事が妙にうわずってしまった。
「お茶でも飲みましょう。空光が淹れたのは、おいしいですよ。」
「へぇ。」
 居間に行くと切る前の自分よりぞろぞろした赤髪の男が、お茶の用意をしていた。
「……冷めねェうちに、飲んで下さいよ。」
 男は指で湯飲みを手前に押し、勧めながらながらぼそりと言った。彼は天狗だという。天狗。そう思いながらじっと見ていた為に目が合った。どこだか気まずくなったが、空光は軽くほほえみ、会釈をしてその場をなごませた。自分でも解る。ここは全てを受け入れてくれる所だという事。自分であっていい所だという事。確かに自分はここになじんでいるという事。体の内にあるものがにじみ出し、じんわり外へ溶けてゆく。
 なんて、居心地がいいんだろう。やわらかなお茶の香り。自分は、ここにいていいんだと。
 ふと、かすかに忘れていた簪の事を思い出し、視線だけでそれを見た。
 ……結局、なんで、うちはこの簪を捨てられひんのやろな……。
 ここに、能の花月の歌った平安当時の流行歌がある。
 今の世までも絶へせぬものは恋といへるくせもの。
 何かに呼ばれた気がして、花月は何となく、何故か振り返った。

 ひょっとしたら、愛されていたのかもしれない……。


相身互い:同じ(辛い)境遇にあるので互いにその立場が解るという事。
今の世〜:現代になっても絶えないのは、恋だと世間でいわれている厄介なものである、という意味。


この話のせいでこのシリーズが秘密部屋に。(笑)
一部の友人に大受け。……滅入る。



前へ ・ 戻る