「……花月。」
「へぇ。」
 暗い声で呼ばれたのに、それを気にしないで明るい声で花月は返事をした。その日は、どことなく様子が違う事に気付いていた。呼ばれた時から、彼にはその気≠ェない、それどころではないという様な匂いをただよわせていた。自分は彼から後ろ向きで、いつかかってこられても構わないという隙を見せて布団の上に座っているというのに、彼は壁の側にいて布団の方へは近付かない。仕事であり、金で買われている身分である花月はどう扱われても構わない。だが政常がいつもと違うので困る。とりあえず花月は背中からちらりと政常を見、誘う様に着ている物をゆるませた。だが政常はいつもの様に乗ってはこない。政常の目に妖しい光が浮かんだのは、花月が不安げに旦那、と言おうと口を開いた時だった。
「俺はお前が誰かのもンになるのは許せねェ。」
 本当に何が言いたいのか解らず、花月はどこか甘える様に首をかしげる。
「……旦那……?」
「言っただろう、俺ァそうやって。」
 ただの威し、ではない。表情がいつもと違う。何が言いたいのか花月はまだ解らなかったが、圧迫する様な嫌な予感に襲われる。
「……あんな所で、見付からねェと思っていたのか?」
 睨む様に眉を寄せ、政常は沸々とわき出る怒りをこらえてかすかに震えている。何が言いたいのか理解は出来たが信じたくはない。よりにもよってあの現場を見られていたとは。どうしたらいいのか、花月には解らない。混乱というより放心。自然に大きく目が開き、首元が心臓の様に強く脈を打っている。人妻との姦通は死罪だ。この場合はどうか知らないが、縁談の決まった娘との和姦も同じであった。しかし政常は花月の事ばかり言う。
「俺はあの女が誰かに取られたって、誰を好きだって構わねェが、俺は、お前が誰かを好きになるのは絶対に嫌だ。許せねえんだ!」
「旦、那……?」
 今夜は酒を飲んでいない。だが目が尋常ではない。異常だ。何かに切迫して近寄ってくる。花月は彼を恐れてか、じりじりと後へ下がっていく。腕に高枕が当り、横に転んだ。しかしまだ政常は迫ってくる。花月は後ずさりをするが足の方が動かない。上半身だけずるずると逃げようとしたので、気が付けば花月は政常に上からのしかかられていた。すぐ息が当るほど顔が近い。ただいつもの様に太股の間に足を割り込ませてこない。広い手で政常が花月の顔を覆うと、花月はいつもの彼らしくなく身を固めて小さくした。
「俺ァ解ってんだぜ。…お前は、助けを求めている。何だかよく解らねェが、お前は、……助けて欲しいんだ。俺は、お前を守りてェ。お前を守るのは俺だけだ。誰にも取られたくない。触らせたくない。……花月!」
 それは、演技だったのだろうか。花月はおどおどした瞳を政常に向け、首を振る様に震える。
「……旦那、アタシが誰かに助けを求めていて、守ってもらいたいと言わはるんなら、それは……。」
 花月はそこで言葉を切った。言いたくなかったのだろう。本心は。だが政常はそんな彼の事よりも、自分の意見を言うのに必死であった。あふれてくる感情を止める事は出来なかった。
「……おェにゃ、俺の気持ちなんて解らねえだろう。大切なくせに、守りたいくせに、そうであるのが俺じゃねェと悔しくて、むしろ憎くて……自分の手で、壊したくなる。殺したくなる……!」
 そう言いながら政常は、両手で覆っていた花月の顔を愛おしそうになでる。
「俺の物になれ、花月。」
「政常…さま…。」
 誰かに助けて欲しいと、守って欲しいと思っているとすればそれは、憎い自分からだ。そう、つまりは生きる事。生の、呪縛からだ。
「花月、花月……!共に蓮華往生れんげおうじょうしよう。俺もすぐ後から逝く……!」
 おもむろに政常は、花月の首に手を回して体重をかけた。
「だ……、ぁあ…ま…さ………。」
 花月の薄く開かれた唇から声がもれる。血が溜まり、顔の色が赤くなってそれから紫混じるが、政常は手をゆるめる事はない。花月も抵抗はしなかった。
 ここで死ねるのなら、殺してくれるのなら。そうだ。いつ死んでも構わない、くだらない命だ。
 関係を持つ時より気持ちよく、眠るより安らかに、花月は静かに動かなくなった。政常は、倒れている花月の上に乗ると軽く彼の唇に自分の唇を当て、それから深く吸う。反応は、ない。ムキになって政常は、死んだ花月をかき抱いたが、彼は人形の様にぐにゃぐにゃで……、泣けた。政常は目を赤くして泣いた。
「……何故、信じてくれなかった……。俺はお前ェが、こんなにも……。殺すほど……!何故お前ばかりが思い通りにならねェんだ!お前だけでいいのに!」

 後の事は、何故だかぼんやりと解っている。倒れている半裸の少年の死体。そして天井からぶら下がっている男。二人の絆を表す様に、互いの腕には固く一本の紐が結ばれていた。男は名代の遊蕩者だったが、この少年に対してはただの客ではいられなかったらしい。遊女や陰間に本気になってはいけないという暗黙の、当然のルールを破り、こういう結果になってしまった。世間の人は韓雲孟竜かんうんもうりょうと口にし、噂した。時は享保きょうほうの頃。井原西鶴が没してから約三十年。彼が生きていたら、この事件をどう文字にしたのだろう。
 それから覚えている事は、少年の懐にあった美しい鼈甲の簪は質屋に流れ、様々な女の髪を飾ったという事。婚約者と、初めて寝た男に裏切られ、茅という少女が辻君になった事……。

 何故、それでアタシはまだ生きているんでっしゃろ……。

 死んだはずだったのに、それで死んだはずだったのに。やっと、憎い自分の人生に終止符を打てたと思っていたのに。簪は、手元にある。
 すらりとした細い、美しい簪。紐の片結びに形取られているそれは、よく見ると細かな模様がいくつも細工されていて、いかにも江戸っ子好みだ。淡い金の光に混じる濃い茶色。何だかまるで、いろんな≠烽フが練り込まれている様だ。じっと見つめているとそのうねりに吸い込まれそうで気分が重くなる。胸がむかついた。
 目的もなく、ただずるずると生き続けているのは、生き地獄とはいわないのだろうか。


蓮華往生:死後、極楽浄土の蓮華座上に生まれる事。
韓雲孟竜:(韓愈かんゆ孟郊もうこうが同性愛であったという俗説から。)男色の深い契り。
辻君:夜ござを持ち、街角に立って客を引いた下級の売春婦。これは京言葉で、江戸では夜鷹といった。



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