2・申し訳なくて、またこっそりと死にたくなった。

桐尾きりお、何か顔色悪くない?」
 授業中、プリントを回してきた前の席の平井ひらいが筅にそう言う。
「…うん、ちょっと……。」
 筅が言葉をにごすと彼はいぶかしがった。
「何か、マジでヤバいみたいだぞ?」
「……薬、呑んだし。」
「……保健室行った方がよくねぇ?」
 親切にもそう声をかけてくれるが、筅にはありがた迷惑だ。黙って首を振ると相手も諦めたみたいに黒板の方を向いてくれたが、今度は別の所から声がかかる。
「桐尾君、具合悪いの?」
 先生だ。しかも優しい化学の先生。眉を寄せて本当に心配してくれている様だ。だが廊下側の席の自分をどうして見付けてしまうんだろう。クラス中の視線が筅に集まる。前の席の奴も振り向いて、ほらやっぱりと案じてくれる様な瞳を見せた。
「……イエ……。」
「無理言ってないで保健室行きなさい。出席日数が足りない訳じゃないんだし、さっきから桐尾君、お腹押さえてるでしょ。」
 この先生、おっとりとしている様でよく見ている。
「あ、じゃ、俺ついてきます。」
 平井がそう言ってさっと席を立ち、支える様にして筅を立たせてやる。彼は親切でよく気が付く為、ちょうど保健委員をやっていた。こうやって本当に心配そうに差し伸べられた手を、いいから、だなんて振り払う事は出来ない。しぶしぶ筅は平井の肩を借りて歩き出す。視線を動かすと、誰もがこちらの方を見ていて居心地悪い。視線は一人の所でぶつかった。……春樹。不安そうに大きく見開かれた目が、嫌だった。
 嫌だ…。誰も見るな。嫌だ、行きたくない……。
 何より一番嫌だったのが、この状況になると思い出す、けれどいつも頭のどこかには必ずある、耳にこびりついて、離れない、あの、言葉。
「筅の変態っ! !」
 いつからだろう、マネじゃないと気付いたのは。思い出をたどると、エメラルドグリーンが目に浮かぶ。さわやかで、鮮やかな……。

「あたし、この色がいい!」
 幼い頃のさらさが両手にそっとその色を取る。この年頃の少女としてはめずらしく、さらさはピンクや赤よりもこのゆるゆると白になじんだ緑が好きだった。そのきっかけは確か、オズの魔法使いのエメラルドの城。まるで輝く魔法を手に取るみたいに、さらさはその色を扱った。
「ぼくも!」
 さらさが物を選ぶ時、何かする時、すかさずこの言葉が割り込んだ。今日は子供達の新しい茶碗を買いにやってきている。さらさが思う茶碗を取るとほぼ同時に、筅が叫んだのだ。
「マネしないでよ!」
「マネじゃないもん!」
 いつも起こるいさかい。こういう時、二人の両親はじゃんけんなどで決めさせる事はせず、もめ事の原因を取り上げた。形に残る物は後になっても喧嘩の原因になると踏んでの事らしい。だがそれぞれ二番目の物を選んでもそれは重なった。二番目はやわらかいペールオレンジ。いっそ二人同じ物にするかというと、子供だからやっぱりそれも嫌で、いつもそういう時に我慢するのはさらさの方だった。
「女の子だから、こっちのオレンジにしなさい。」
「さらさはお姉ちゃんだろう?」
 双子で姉も弟もないのだが、言葉のつたない子供では反論の言葉が出ない。でも、だってを必死で言っても強く聞き返されたら言葉が出なくなる。それでも言葉を紡ごうとするとなだめられる様に叱られた。
 欲しい物を手に入れたはずなのに、筅はその場面になるとたまらないほど切なく、苦しく、悔しくなった。宝物だったはずの物への興味があっという間にそがれ、さらさに返したくなる。けれどそれを言葉にするだけの勇気はなく、一度だけ声に出してみた事もあったが、すねたさらさが受け入れる事はなかった。
 そうした事が繰り返されるうち、さらさの言葉がいつの間にか変わっていた。
「筅のバカ!よこどりしないでよ!」
 言われた時は、本当にショックだった。

 何が、きっかけだっただろう。これはマネではないと。
 好きな物も嫌いな物も、趣味も得意も苦手も同じ。顔もよく似ている。さらさの思いはすぐ解る。さらさの考えはよく解る。勘がいいとか、察しがいいとかいう事ではなく、同調。一卵性の双子でもないのに。
 さらさが行動に移す前に、ほんの少し先回りして筅が彼女を立ててやる。さらさは機嫌がよくなるし、筅も幸福感に満たされた。
 二人の間だけにある、特別な、力。誰にも解らない特殊な、共通な秘密を持って、お互いうんと仲良くなれた。宝物だって何だって二人おそろいでいい。幼なじみの春樹をだしにして、二人色々楽しくやった。
 だが、二人が成長するにつれ、その関係は崩れていった。

「イタ……ッ。」
 ……あれは、確か小学四年の時……。
「っと、ごめん、筅。」
 筅と春樹とが遊んでいてぶつかって、筅が苦しそうに胸を押さえる。
「?」
 身に覚えのない、打ち身の様な、いやそれとも違う内側からの痛み。何もしなければ全く平気だが、ふれると体がしばらく動けなくなるくらいしびれて、痛い。
「大丈夫?」
「……わかんない。何かおさえるといたい。」
 そう言いながら筅は何度か胸を押さえてみる。原因は解らない。両の胸が痛い。
 その時さらさがいたらどう言っただろう、どうしただろう。……そう確か、体の変調にはっきりと気付いた時、彼女は女の子達だけでする、友達のバースデーパーティか何かに行っていた。もし、ここに彼女がいたら……。

「筋肉痛――か、……何かそれに当るものー……だと思いますよ。特にしこりみたいなのもない、しー…。あ、もう服着ていいよー。」
 うながされ、筅は脱いだ服を着直した。この小児科の先生は独特な、あやふやな印象を受けるしゃべり方をする。側で母がどこでうなずいたらいいのかつかめず、言葉を言い終えてから、そうですか、と返事をする。
「まぁ成長期です…し、節やら何やら痛むのかもしれませんー、ね。……どー…します?一応鎮痛剤出しておきまー…しょうか。」
「あ、はぁ、じゃあお願いします。」
 母は何とも言えない相づちを打つ。この先生はずっとカルテを見ていて、独り言なのか話しかけているのかよく解らない。器用にペンをくるくると回すとカルテをとんとんとたたいた。
「そのうち痛まなくなるとは思いますー…けど、心配でしたら一度大学病院とかできちんと看てもらった方がー、いいんじゃないでしょうか、ね。」
 あやふやながらもその言葉に安心したのか、母はそれから筅を病院に連れていかなかった。連れていかなかった本当のところは、胸が、というよりはおっぱいが痛むという現象を、女みたいだと筅が気付いたからだ。彼は話題を終らせようと、もう何でもないと平然を装った。しばらくすれば痛みは慣れてくる。自然と胸をかばう事もそのうち覚えた。
 その痛みがなくなる頃、さらさは父親や筅と風呂に入らなくなり、彼女の胸はふっくりとした女性の物になっていた。
 筅も二人の体の違いに、徐々に男になっていく自分の体に、さらさとの距離感を確かに覚えた。だがさらさは、それ以上に何だかよそよそしくなっていった。
 そして、決定的な事がやってくる。

 ある時、特別な日でもないのに夕飯に赤飯が並ぶ。
「……これ……?」
 筅が声を出すと、母親はいいから食べなさいとにごした。思うところが何となく感じ取れてさらさの方を見ると彼女は何とも言えない表情で自分を睨んでいた。その表情には嫌悪が混じっていて、伝わってきた自分に対する思いがひどく暗く、ぐちゃぐちゃしたものだった。
 赤飯を口に含むものの、味がしない。喉は渇いているみたいなのに、水すらのみ込む事が難しい。この場所に、いたくない。不審がられるのを承知で筅は席を立った。
「ごめん、もうごちそうさま。」
「どうしたの?気分悪い?」
 母が筅の顔をのぞき込む様にしてうかがう。何気ないみたいにそれをかわすと筅はよたよたと二階に上がり、自分の部屋に入ってばたんとドアを閉めた。そしてベッドの上に倒れる。
「……さらさ。」
 声は二階に届いていないが、母とやり合っているさらさの心が伝わってくる。
 赤飯やめてって言ったのにどうして出したの?
 絶対に嫌だって、あれほど言ったのに!ちょっとでも、量なんて関係ないの!
 さらさの心が丸ごと自分に入ってくる。羞恥、嫌悪、そして憎悪。それらはまるで自分の心の様に筅の体中を暴れ回った。自分が自分で客観的に、そして自分自身でも汚らわしく、嫌に思う。とりとめのない、ただ激しい思い。シーツをつかんでも、自分をかきむしっても形は見えてこない。ただ逆流してくる血だけが熱い。どくんどくんと、心臓が壊れそうなくらい動いて、喉の血管が破裂しそうだった。
「さらさ……さらさ……。」
 とめどなく、涙があふれ出てきた。自分は何故、こんな中途半端に生まれ損ねてしまったのだろう。何故さらさの心を借り、中の思いを勝手に傍受するのだろう。
 そうやって泣いていると怒りにまかせた足音が響いてきて、隣の部屋のドアが大きな音を立てて閉まる。筅はいたたまれず起き上がり、さらさの部屋の前に行ってかりかりと猫みたいにドアをひっかいた。
「さらさ、ごめん、……ごめんなさい……。」
 ただ嫌われたくない、自分自身に嫌われたくないみたいな気持ちで筅は必死でさらさに謝る。
「さらさ、……さらさぁ……。」
「……いいから、だまってよ。」
 冷ややかな声が返ってくる。これ以上何も言えない。謝罪の言葉を繰り返しても相手に伝わらなければ意味がない。今は放っておくのが一番いい。……だが。
「ごめん……。さらさぁあ、ごめんなさい……。」
 ドアの内側からドンと大きな音が鳴る。何か物を投げたらしい。
「うるさいわね!あんたがあやまってもしかたないでしょう!」
 さらさの声も、涙がにじんでいた。

 さらさの生理は、他の人に比べて重いものだった。その度に寝込んで何も出来ない、というほどではなかったが、それでも二、三日は辛い。
 そして一番辛いのは、そんな事ではない。さらさがそれで苦しむと、同じ様に筅も苦しむからだ。お腹が痛い、と。双子な為、クラスは別々だったがその時は必ず保健室で一緒になった。先生にも名前を覚えられ、いぶかしがられる。
 月一度、同じ時、同じタイミングに保健室で顔を付き合わせる双子……。
「……さらさ……。」
―――――……。」
 筅が申し訳なさそうな表情になると、さらさの怒りは頂点に達する。人の顔をうかがうみたいな表情。生理中のいらいら。繰り返される、この出来事。いい加減、我慢の限界だった。
―――筅の変態っ! !」
 それから、さらさは一言も口をきいてくれなかった。
 彼女の気持ちが解る分、辛い。けれどどんなに、何をしても、この体が変わる事はないのだ。謝罪も懺悔も通じない。改善されるという事はない。自分にだってそれは通じなかった。
 こんなに死にたいと思ったのは、生まれて初めてだった。

「やっぱいいよ、保健室。…トイレ行って、ちょっと吐いたらよくなると思うし。」
「何言ってんだよ。そんな風じゃないだろ。」
 親切なクラスメートは筅を保健室の前まで引きずった。そして、そこでまた一人の少女に出会う。髪の短い女のクラスメートに付き添われた……。
「……さらさ……。」

 申し訳なくて、またこっそりと死にたくなった。



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