4・だから許して、とは言えないけれど……。

 何もしたくなかった。
 絶望というほどどん底ではないが…いや、そこを通り越してずぶずぶと埋もれているのかもしれない。諦めの様な、呆然とした何ともいえない、空洞。もしかしたら絶望した方がましなのかもしれない。今の自分には、そうする気力さえない。やけに冷静なだけ、惨めだ。
 夕飯も拒否してベッドの上に倒れ込む。自分の部屋の、逃げ場。けれど眠る事は出来なかった。
 僕がさらさと同じ様に、春樹を好きに、なったから。
 莫迦な事を言った。自分の気持ちを言ったばかりではない。自分の気持ちに理由を付ける為に、さらさの想いまで口走ったのだ。
 さらさはまだ家に帰ってこない。顔を見ているのがしんどいと彼女は言った。その言葉は重い。嫌でも、苦しいでも、辛いでもない、しんどいという、言葉。おそらくさらさは友人の家で夕飯をごちそうになったのだろう。ちょっと前にかかってきた電話は、誰か聞かなくても解る、彼女からのもので、ひょっとしたら今日は家に帰ってこないかもしれない。
 話をしなければいけない。謝らなければいけない。けれど顔を合わせたくない。……自分だって、しんどい。
 明日も、学校に行かなきゃ駄目かな……。
 もう涙はこぼれない。全てを失った人間て、こうなるのかな、なんて誕生日もまだ来ていないから十六のガキが、こんな事を思うのは莫迦な事かもしれない。けれど当事者である自分は真剣で、それが全てだ。他の人から見たらちっぽけな事かもしれない。けれどそのちっぽけなものが自分の全てだ。
 漠然と、ただ漠然と死を思った。
 ……明日は、休んでしまおう。
 眠くはなかったし、寝る気もなかったが、ふと目を覚ますと朝になっていた。ずっと気にしていた隣をうかがってみると、気配がない。何となく想像していた通り、さらさはそのまま友人の家に泊まって帰ってこなかった様だ。時計を見ると六時。いつも起きる時間より四十五分も早い。うだうだと布団の中ですごし、筅はわざと遅めに起きた。朝食を食べずに具合が悪いから今日は行きたくない、と母に告げる。昨日夕飯を食べなかった事も功を奏したのか、二、三声をかけてくれた後、承諾してくれた。
 それが成功すると、妙に興奮してどきどきする。もしかしたら、仮病だってバレたかもしれない。あの保健医だったらまず一発だろう。けれどまあ今日は行かなくていいのだ。普段真面目にやっているし、たまにはいいだろう。
 そしてその興奮がおさまると、また心が重くなる。一生休み続ける事は不可能だ。明日はやっぱり行かなくちゃ駄目だろうか。どんな顔すればいいんだろう。どんな事を話せばいいんだろう。とりあえず二人に謝らなくちゃいけない。……でも、どうやって謝ればいいんだろう。どうやって謝れば許してくれるんだろう。どうやって謝れば、自分の気持ちが伝わるんだろう。
「……何で、好きなんだろ。」
 ぽつりと、筅は思いを吐き出す。
「……何で、さらさとおんなじなんだろ。」
 腕で目の前を覆う。痛いくらいに瞼を押さえても、すっと涙がこぼれてきた。
「何で僕はさらさじゃないんだろ……。何で、どうして……。」
 声を抑えて泣くと、喉の奥がさけたみたいになって痛かった。痛くて、苦しくて、また泣けた。ふと時計が鳴ったのに気付く。八時半。朝のHRが始まる頃だ。明日が来るのを恐れているのに、今日一日がまだ長くて、辛い。
 僕は一体、どうしたいんだろう。どうなる事を、望んでいるんだろう……。
 解らない。
「筅。」
 母に声をかけられ、あわてて涙をふくと、筅は布団をかぶる。返事をしないで…というより、出来ないでいるとノックが聞こえてきてドアが開く。
「……寝てる?おじや作ったから、机の上置いとくわよ。水でもいいから何かお腹に入れて、薬呑んでおきなさい。」
 涙声になるだろうから声は出さず、筅は布団の中で何度かうなずくと、母は了解したという風に布団をぽんぽんとたたいた。
「苺とか食べるなら買ってくるけど、どうする?」
 そのままで首を振ると、母はじゃあゆっくり寝てなさいと言って部屋から出ていった。弱っている所への優しさはとてつもなくしみて、それだけで目の奥がじん、と痛くなる。ドアが閉じられるとおじやの優しい匂いが立ちこめて、筅のお腹がぐっと鳴った。昨日から何も食べていなかったので当然の反応なのだが、それが情けなくてどうしようもなく、泣けた。

 そしてじりじりと、遠火で焼かれるみたいに一日が終る。筅は泣き疲れ、眠りすぎでぼおっとし、起き上がると頭が痛くなっていた。額に手を当て、何とも言えない鈍痛に眉を寄せていると、玄関の開く音が聞こえてきた。
「!」
 間違えるはずはない。さらさが帰ってきたのだ。母と何か話しながら声は洗面所へ向かって消えていく。いつもの習慣で手を洗っているのだろう。そして足音はとんとんとんと二階の方へと上がり、それから唐突に、自分の部屋のドアが開いた。
「……お、…おか…えり……。」
 ベッドの背に、にじり寄る様に身を起こし、ようやくそれだけ言える。だがさらさは何も言わないで鞄をドアの側に置き、筅の勉強机の椅子にどかっと腰かける。何かを、何かは解らないが、何かを知られていると筅は感じ、こわばった。
「……あんた、今日休んだみたいね。」
「あ、…うん。」
 沈黙。さらさは何か言いづらいみたいで下を向き、筅と目を合わせようとしない。何だかいつもとは違うめずらしい態度に気分が落ち着かず、筅は妙にそわそわしながらさらさをじっと見つめる。やけに長く感じる間があってから、目がどこか虚ろなまま、さらさはぽつり、ぽつりとしゃべり始めた。
「今日、私…春樹に何か…呼び出された。」
 どくん、と心臓が壊れたみたいに大きな音を立て、目の前がくらんで、内蔵という内蔵がぎゅっと縮み上がった。筅は何か言い訳をしようとしたが、金魚みたいに口をぱくつかせる事しか出来ない。さらさはそんな筅をちらりとも見ないでただ言葉を続ける。
「……好きって。」
 瞬間、筅の心が震える。呼び出され、春樹に告白されるさらさの姿が頭をよぎった。よかったはずなのにいたたまれなくて、筅は固く目を閉じる。
「…言ったんだって?」
 え、と思わず筅はつぶやく。さらさを見返すが、さらさはただ、いじっている自分の指を見ているだけだった。
「でも何か、……あんた今日休んだし。」
 気にしてたみたいよ、とさらさはぽそぽそ話す。筅は思わず困惑した。どうやら彼女はただ昨日の出来事を、自分が春樹に告白したのを聞いただけらしい。だがそれだけでも充分、自分にとっては重大な事件のはずで。けれどさらさは変に落ち着いていて。だけど何か、態度が変で……。
「………さ…さらさ……。」
 うわずりながら、さらさの名前を呼ぶ。けれどさらさは聞いていないのか、それとも無視しているのか、その呼びかけに反応しなかった。
「……私も、好きって言った。」
 正直、その口から聞きたくなかった。ぎしぎしと胸が痛む。重い頭痛に吐き気がする。目の奥もずきずきして涙がこぼれそうだ。可愛いさらさ。きれいなさらさ。さらさにかなうものなど、さらさに勝るものなど、ない。さらさの、春樹への告白。それはさっきしたさらさが春樹に告白される想像と、大して変わらないものだ―――
「ゴメン、だって。」
 その一瞬、時が止まった気がした。全てを忘れ、思わずはじける様に布団から出た。心臓が爆発する。
「何で……!何で!?」
 口が勝手に叫ぶ。全身に鳥肌が立って、ぶるぶると手が震える。
「春樹、あんたの事が好きだって。」
―――え。」
 なかったはずの、可能性。そんな事はみじんも考えていなかった。
「……うそだ。」
 唇が、震える。無機質な声だけがぽろりと出ると、さらさは少しうなだれ、莫迦にするみたいに、ため息をつくみたいに、かすかに鼻で笑った。
「両想い。」
 さっき確かに、かすかにだけど笑ったはずなのに、さらさの声は震えていた。
「春樹、……男なのにって。さらさは女なのにって。」
 声に、どんどん涙がにじんでいく。その有様が、目の前で起こっているのに何だかひどく遠くて、でも変にリアルで、筅は呆然とした。
「……なのに。」
 肩までの、やわらかい髪の毛で顔は見えない。けれど滴がこぼれ落ちた一瞬で、筅の全ては目の前のさらさしかなくなった。さっと側に寄り、うやうやしい様にひざまずく。
 胸がぎりぎりきしんだが、それが自分の思いなのか、さらさの思いなのか解らない。辛くて、苦しくて、悲しくてどうしようもない。どうしたらいいのか解らない。何とかさらさを慰めたかったが、もう止められない、後から後から降るこの涙が自分のせいだと思うと、動けなかった。
「……ふっ、…う……。」
 涙は止まらないのに、目を見られない様に閉じ、さらさは必死で声を耐えていた。筅はそんな姉のぬれた睫毛を見つめる。そしてさらさが自分の膝に爪を食い込ませたのに気付くと、反射的に筅はその手を引きはがした。さらさは少し驚き、筅を見つめると、そのまま汗ばんでいる筅の手を握り返し、それにすがる様に自らの手をからめた。そして筅のパジャマの襟を握り、引き寄せ、背中をひっつかみ、強く、強く抱きしめる。体温も、心音も、声も心の中までもが筅に直接伝わっていく。筅はさらさの複雑で、それでも真っ直ぐな思いに当てられてぐらぐらしながらも、憎い自分の胸でさえ、頼りにしたくなる様な思いを抱えているのだと思うと、悔しくて仕方がなかった。
 可愛いさらさ。きれいなさらさ。何の欠点も、何の落ち度もない、完璧なさらさ。なのに、何故だろう。どうしてだろう。何がこんなに、互いを隔ててしまうのだろう………。
 壊れた様にどっと、涙があふれてきた。ほとんど意識はないまま、空をうろつく自らの腕をやわらかな背中に回す。指がさらさの形を感じ取ると、とたんに感情が爆発するみたいに頭が真っ白くなる。さらさを強く、抱きしめれば抱きしめるほど、自分は壊れていく気がした。……いや、壊れてしまえばいい。自分など。おまけが、中途半端な生まれ損ないが、本体≠食っていいはずがない。間違いなく全て、自分のせいなのだ。自分ではどうしようもなくても、自分のせいなのは変わらないのだ。
 解っている。謝罪の言葉を述べただけでは、謝罪にはならない。心を込めればいいというものでもない。謝るという行為はひどく自分勝手なものだ。謝ったじゃないかという奴は論外だ。届いて、伝わらなければ意味がない……。
 けれど、気が付いたらゴメンの言葉を繰り返していた。ひたすら、ゴメン、ゴメン、さらさゴメンと。さらさを抱きしめて、泣きながら。
「……さらさ……。」
 せめてどうか、自虐行為はしないで。さらさ≠傷付けないで。代わりはここにあるから。どうにでも、好きにしていいから。
「……さらさ……。」

 だから許して、とは言えないけれど……。



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