5・何処まで逃げ切れれば、追い付かれなくてすむのだろう。 今日は休めなかった。本当をいうと、筅はまた休もうかなんて思っていた。だが降りてきてダイニングと見ると、さらさは制服姿で朝食をとっていた。何となく困惑した表情でさらさを見ると、さらさは怪訝そうな表情で見返してくる。 「まだ着替えてないの?」 「ち、ちょっと寝坊して……。」 「時間まだあるけど、早くしなさい。それともまだ具合悪い?」 何にも事情を知らない母親は、ただのんきにそう言った。どっと思い出した秘密を隠す様に筅はあわてて洗面所へ行き、手早く歯を磨いて適当に頭をなで付け、自分の部屋に戻ってさっさと制服に着替える。加害者の自分が傷付いて休み、被害者であるさらさが傷を押して学校に行くというのも変な話だ。筅は焦った。自分の卑怯さに、ずるさに、さらさがまた不快な思いをしたかもしれなくて、怖かった。がちがちと情けなく震える手で、ようやくボタンをとめ終えると急いで部屋のドアを開けた。 「うあっ……!?」 「……っ、ごめん!」 驚いたさらさをかばう風にして、しまった、と思ったのはその後だった。もう目が合っていてそらせない。どうしようか迷ったら筅の体は固まってしまった。何か反応を、何か反応をしなければ。だがさらさはそんな風に焦っている筅を、まるで人形の様に冷めた目で見つめ、何気ない風に背中に回っている筅の腕をほどかせた。 「……私。」 ささらは筅の目の奥を見る様なとがった視線を向けると、赤くはれた目の下とは裏腹な凛、とした声を放つ。 「私、失恋くらいで…逃げたくないの。嫌でも何でも、これからもあんたとはずっと付き合っていかなきゃいけないんだし……。私は、情けなくはなりたくない。」 そして気合いを入れる様にぐっと胸を張って、筅を強く睨み付ける。 「惨めになんか、なりたくないの。……だからその顔、やめて。」 「…ご、ごめんっ……。」 筅は思いきりうろたえて顔を押さえる。だが必死で表情を変えようと焦るこの顔も、さらさは良く思っていないだろう。ぴり、としたものが伝わってきた。 「……これから、春樹と学校行く?」 痛い視線を外され、かすれたみたいな声で言われたそのセリフに筅はぐらりとゆれる。 「僕、……僕は、さらさが嫌じゃなかったら……。」 「別に、一緒に行けば?」 自分から切り出した事のくせに、さらさはもうこの話を終らせたかったらしく、もう目線を合わせようとする事なく身体をよそへ向け始める。 「―――ち、違う…!僕は、さらさと……。」 筅はまるで言葉が解らないかの様にもつらせ、さらさを呼び止めた。自分でも半分、何を言っているか解らなかった。とっさに出たその言葉に、おそらくさらさは怒るだろう。けれど、どんな形になろうとその言葉を、言わずにはいられなかった。 「は?何?遠慮?」 振り向いたさらさは案の定、いら立ちを隠さないで言った。今は何より怒りが勝っているのだろう。真っ直ぐ目を合わせて軽蔑の色を見せる。けれど筅はそんな事より振り返ってくれた事が嬉しかった。 そして自らも一つの強い意志を持って、強く見つめ返した。 「……僕は、春樹とどうこうなる気はない。」 そう口に出すと筅はすっきりした。それはさらさへの遠慮でもなければ、もちろん同情でもない。自分の意志だ。さらさか春樹か、どちらかを選ぶのだったらさらさを選ぶ。これからも、ずっとずっと付き合っていくのはさらさの方だ。さらさ、だ。 「……別に。好きにすれば?でもとりあえず今日はお断り。急げば?」 少しの間、驚いた表情をしたが、すぐに冷たく言い放ってさらさは後ろを向いた。今度はどんな言葉でも呼び止める事は出来ない。さらさの苦しさも、悔しさも解るのに、寂しいと思うのはあんまりにも自分勝手だ。想いなど、伝えなければよかった。変わる前の関係に戻りたい。さらさとも、春樹とも上手くやっていきたい。きっとさらさはそんな自分のずるさに気付いている。そして、呆れているだろう。 学校までの短い距離でさえ、一人ではおぼつかない。ぱらぱらと登校している生徒達の中にさらさがいないと思うと、気が遠くなって真っ直ぐ歩く事すら難しかった。それでも何とか重い足を学校にたどり着かせると、教室にはすでに春樹がいた。さらさをフったくせに、目が合うと春樹は妙に照れながらいつもの様にやわらかい空気で近付いてくる。 いやだ………。 胸の中に、何だかざわざわとしたものが吹き荒れて、春樹が近付いてくるのに合わせて粘土の様に、自分の顔がぐにぐに変わっていくのが解る。 「お…っす。」 筅の機嫌をうかがう様に春樹はしゃべりかけた。その態度を受けて、筅は落ち着こうと息を思い切り吸って、全て吐き出した。 「………めずらしいね、こんなに早いのは。」 「今日はお前が遅いんだよ。……昨日、休んだし……。」 何気なく、互いの関係の事をほのめかすみたいな発言に、筅はすっと冷めた。 「ああ、平井、昨日のノート写さしてくれる?」 「おん、ちっと待ってー。」 「ノートなら俺が……!」 何気ない風に、でも確実に自分を無視し、前の席の平井に声をかけた事を春樹は驚き、焦る。 「春樹字ー汚いし、黒板に書かれた事しか書かないだろ。」 筅がまた突き放す風にそう言うと、何も知らない平井はおかしそうにげたげた笑った。 「ほい。現国一限目だからHR中に書いちゃえよ。」 「さんきゅ。」 筅は自分の領域を広げるみたいにノートと、特に必要のない教科書を広げると、何も言わず黙々と、けれどこっそりなかなか終らない様にノートを写していく。春樹は近くの椅子を借りて、そんな筅をただじっと見つめた。かすかに、だけど確かに主張する様に机の端に置かれた指が、筅にふれたがっているのかぴくぴくと動く。 「……あのさぁ、見られると書きにくいんだけど。」 「うん。」 春樹はそう言いながら、筅の側を離れなかった。解っているくせに。昨日の事だって、覚えているくせに。さらさをフったくせに。全部解っていて、知らんふりをして自分の側にいる。 僕の事だって……、僕がどんな気持ちでいるか、さらさをフった自分なら気付いているはずのくせに……! 長めに出していたシャーペンの芯が、自分の気持ちの様にぱちんとはぜた。 「って!」 「あ、ごめん。」 そう言いながら、かすかに自業自得だと思った。 「邪魔だよ。」 思ったら、するりと口から出た。春樹は隠さないで不快な表情を出したが、筅はまた無視をしてノートを写し始める。こんな事、別に大した事ではないだろう。春樹がさらさにした事を、自分はただ春樹にしているだけだ。それだけの、事だ。 「な、どったの?お前らケンカでもしたん?」 HR中、平井が眉を寄せながら話しかけてきた。彼とは仲が良かったが、こればっかりは何も言えない。けれど黙っていると察してくれた様で、ふっと軽く笑うと平井はそれ以上何も聞いてこなかった。思わずありがとうと言いそうになって、やめた。こんな小さな事でも莫迦みたいに安堵してしまえるほど、自分は弱っているんだと筅はようやく気付いた。 あの告白を、なかった事にしよう…とは言えない。それに今更、思えない。けれどそれをあった事にするのも出来ない。いや、しない。かといってどうするか、好きにして構わないとしても、自分は何一つ考えられなかった。 さらさ……。 どうすれば一番いいのか。誰を優先するか。結局一日中ノートを取っていた自分から離れなかった春樹は、その思いを踏みにじっている様に思えた。たまらない、不快感。いらいらはさらさの生理からだろうか。それともさらさの思いだろうか。 またシャーペンの芯が折れた。 「話、あるから……。放課後ちょっと残れよ。」 いい加減気持ちの限界がきたのか、何ともいえない面持ちで春樹は筅にそう告げた。 「……解った。」 ちょうどいい。自分は春樹とどうこうなるつもりはないという事を、本人にも言ってしまえばいい。けれどそう言いながら筅は、さらさがいつもの様に迎えにきてくれたらそのまま帰ってしまおうと思った。もうありえない、いつも。 放課後の教室は、何もかも一昨日と変わりなかった。かすんだ様な、くすんだ様なほこりっぽい空気にさえぎられる西日の光。けれど今日は、一昨日ではない。 「何で、そんな風なんだ。」 睨む風にして春樹はそう切り出すと、理由が解らないでもないくせにと思いながら筅も眉をつり上げた。 「……さらさの事。」 「……そ……れは……。」 それだけ言うと、春樹はつまる様に迷った表情になった。だがすぐにまたむっとした表情を見せる。 「……さらさの事、聞いたなら……解ってるだろ。」 「何でだよ。何でさらさじゃないんだ!」 激しくののしり、責任転嫁をするとそれにのる様に負の感情がどっとあふれてくる。 「普通…、普通逆だろ?信じらんね、何で僕の方を選ぶんだよ!」 お前さえさらさを選んでいたら、こんな事には――――……。 「……解んねェ。俺も、そう思う。」 「―――――。」 それはあまりにも真っ直ぐな目で、そして澄んだ声だった。そんな風に静かに言われた為、筅は全身に鳥肌が立って胸を衝かれた。まずい、と思ったけれど心をまとっていたものがばらばらとはがれ落ち、すでに感情がとりとめなくなっていた。 「けど、俺は…お前が好きなんだ。……好きだ。……ずっと、好き…だった。」 一度告白されているという安心からか、春樹は必要以上に何度もそう言った。この思いが、きちんと筅に届くようにと。筅は脳をゆさぶる様なその言葉に身体が震えた。追いつめられるみたいな感覚。絶対的な余裕を見せ付けられ、どうしようもない。 「何だよ……。何でだよ…!さらさはお前の事っ……好きなのに……!」 絶対に言いたくなかった抗議。……さらさ。言葉が、引きちぎられるみたいに自分から出ていった。 「お前は?」 そう言われると、ぴん、と体が硬直して動けなくなった。春樹は前みたいに手を伸ばして近付いてくる。筅がそのままじっと動けないでいるとその手は目の前に、首に、肩に、そして背中に。ゆっくり、まるでスローモーションの様に動いて、やんわりと抱きしめられた。 「……お前は?」 優しい声で、もう一度春樹は聞いてくる。筅はかたくなに口を閉ざし、何も言わなかった。何も言わなかったけれど、抱きしめられたままでいた。自らの腕を背中に回す事も、体重を預ける事もなかったが、ぬくもりを、受け入れていた。そしてかすかに、目を閉じた。 何処まで逃げ切れれば、追い付かれなくてすむのだろう。 |