6・その人の為なら、自分なんて簡単に消せる。

「……帰るか。」
 筅を抱きしめ、しばらくした後、春樹は口を開いた。そっと背中に手を当てるだけの抱擁に、春樹の腕も限界だったのだろう。だが筅はずっと棒立ちのまま、黙ったまま変わらない。
「……筅?」
 春樹の声は、優しい。それをどこか遠くに感じながらいると、春樹は少しかがんで顔をのぞき込んできた。
「あ…と、悪いけど、一人で帰ってくれる?少し、ちょっと色々…考えたい。」
「…ん、解った。じゃ…明日、な。」
 筅の言葉に少し妙なものを抱いたが、春樹はおそらく姉の事についてであろうと思いなおした。せっかく心が、関係が固まりかけたみたいなのに水を差したくないと、名残惜しそうにしながらもそっと春樹は筅から離れた。
「じゃ…。」
 筅は笑いながら手を振る。春樹が教室から出ていって、遠くへ行ってもその方向を向いたまま、しばらくそうしていた。
「ごめんなさい……。」
 誰に向けるでもなくそう言うと、筅は顔をゆがめた。
「許してなんて、言わないから……。」
 周りの景色もゆがんでいく。まるで首を絞める様に喉を押さえると、ばらばらと涙がこぼれた。
「筅は消えるから……。もう、終らせるから……。」
 筅は力無く座り込むと、周りの、全ての世界を遮断させるかの様に耳をふさぎ、頭を抱えて乱暴に髪の毛を引っ張った。
 こんな事、誰にも相談出来ない。誰にも、合わせる顔がない……。帰れない。何処へも行けない。どこへも……。
 涙があふれて、止まらない。声にならない声は喉に引っかかる。これが、自分だ。こんな惨めなのが自分なのだ。……大丈夫。たった十六のガキが、こんなちっぽけな自分が一人、いなくなっても誰も、何も変わらない。
 寂しさと、安堵を同時に感じ、そしてああ、死ねると思った。それは今まで思った死への思いとは違う。血の流れない、痛みもないぱっくりと開いた傷。そして筅は精神が狂ったみたいにへへっと空気をもらして笑った。
 何かに酔っぱらったみたいな、ぐらぐらとした高揚感。筅は勢いだけで走り出し、階段を駆け上がる。立入禁止の張り紙も何もためらわず、重い鉄の扉を開けて屋上に出た。
「………………。」
 そこはテレビドラマで見た様な広い場所ではなく、やけに狭く、小さく、薄汚れた所だった。辺りの家の屋根が見える様な高い場所でもなく、ここで何かあっても、誰かが気付く事はないだろう。……それは決して、気付いて欲しいという意味ではない、が……。
 ただタイルの隙間につまった煙草の吸い殻だけが、この場所の時々の利用客を示していた。
 ここが、自分が最後に見る景色……。
 壊れた蛇口の様に、ただ、涙がこぼれた。心臓の音はこれからの行動を押す様に早く、強く鳴り続ける。体中が熱く、耳はふさがれたかの様に内側の音だけを取っている。
「は、……はぁ…あ……は、は……。」
 ため息の様な、叫びの様な、笑いの様なものが口からこぼれる。一メートルほどしかない、ただ付いているといった感じのフェンスをよじ登り、向こう側に足を着けた。そのずっと下には植え込みとコンクリート。下手をしたら助かるが、助かったらとても痛いだろう。そう思うとフェンスをつかんでいた力を強くしてしまった。これから、死のうという人間が。
「………………。」
 心臓が、外から見てその様子が解るんじゃないかと思うほど、どんどんと太鼓の様に激しく音を立てる。口からでないとすでに息が出来ない。後ろ手につかんでいるフェンスが汗でぬるぬるしてきて、ぎりぎりかかとがのる不安定な足元がこすれてじり、と鳴った。こんな所に実際立っても思った通り、誰も気付かないでいる。
 気付いて欲しい、訳じゃない。けれどたったひとつ、たったひとつ心残りがあるというなら……。
「……さらさ……。」
 そこでようやく、体が震えて本物の涙がこぼれた。
「さらさぁ……、怖いよ……。」
―――筅!バカ!何やってんの! !」
 実にタイミングよく、声が聞こえた。
 さらさ………! !さらさ……!
 めまいが、する。それは幻聴でも、幻覚でもない。今一番会いたくて、会いたくなかった人。これで心残りは、なくなった。勢いだけで飛び降りようと構えたが、手が、フェンスから離れない。がちがちにこわばっているのか、無意識に恐れているのか、それとも見えない力で制止されているのか……。
 さらさは筅を追いつめない様にか、走らずに早足で近付いてきた。けれど顔を怒りに固まらせ、肩で息をして。筅はただおろおろと周りを見回して、何処にも逃げる事が出来ないと気付くと、全身が麻痺したみたいに動けなくなり、さらさの顔から目が離せなくなった。
「……ごめんなさい……!」
 筅がそう叫ぶと、さらさはそこでぴたりと止まった。それ以上近付くと、筅は本気で飛び降りてしまうと思ったのだろう。
「ゴメンはいい!早く戻れ!戻りなさい!」
 もどかしさに、さらさは激しく命令する。
「消えるから…憎まないで……。」
「うるさい! !あんたのご託はいいの!私が言ってるの!戻れ!早く!今すぐ!」
 さらさは強く拳を作り、いらいらして足を踏みならす。筅は思わずびくついた。彼女に逆らう事は出来ない。よろよろと向き直り、フェンスに足をかける。おとなしく戻ってくる様子の筅にさらさは近付くと、向こう側に落ちない様にしっかりと腕をつかんで早く危険から遠ざけようと無理矢理引っぱる。そして線の細い筅の体は軽く、無様に屋上の固いコンクリートに倒れ伏した。
 痛みを感じる前に、手が、足が、体が地に着く感触に震えが止まらない。全身の力が抜けたその無防備なところを、筅は胸ぐらをつかまれて思い切り左ほほを殴られた。
―――この、大バカ!」
 頭ごなしに大声で怒鳴られ、しびれるほほを押さえながら筅は呆然とさらさを仰ぐ。
「……私はね、あんたの事、嫌いよ?むちゃくちゃ……、壊したいくらいに大っ嫌いだった事もあるよ!?…でもね!憎んだ事なんて一度もないの!」
「え……。」
 筅は訳が全く解らないと言った感じで、たださらさを見やる。可愛いさらさは、きれいなさらさは目をつり上げて激しく怒りに、体を震わせていた。家から走ってきたのだろうか、楽な私服姿で、髪の毛は乱れている。こんな、こんな風になるまで必死でと、自分のせいでと、自分の為にと思うと、筅は理屈じゃなく、うぬぼれたくなった。
「バカにしないでよ。私の片割れよ?例え憎んでたとしても、今までずっと一緒にいて、いきなりこんな事されて……いなくなったら……どう思うと思うの!?」
 そしてさらさは大きく手を伸ばす。また殴られるのかと思って筅は覚悟を決めて目を閉じる――が、どこにも衝撃はなく、さらさの手に自分の手は取られていた。
―――ほら!何でいらない事ばっか解って、こんな肝心な事解んないのよ!」
 そう言ってさらさは筅の手を自分の胸に押し当てた。筅はその手に感じるあたたかさとやわらかさに気付くと、かっと体が熱くなって身を引こうとする。だがさらさはそれを許さず、筅の手を強く握った。
 熱い。――熱い、熱い、熱い。流れ込んでくる、熱い、熱さ。そうだ、さらさは複雑でも、ぐちゃぐちゃした汚い感情でも、でも、いつも真っ直ぐだった。どんなに激情したって、その元にある本当の心は何も変わらなかった。醜い感情に心をまかせても、絶対に、言ってはいけない言葉は言わなかった。
「………ごめ…なさ……。」
「謝るんなら二度とするな!」
「……はい。」
 まるで母親の様にきつく叱りつけるさらさに、けれどその心が震えているさらさに、筅は素直にうなずいた。涙が、止まらない。その言葉が本当だと認識すると、さらさは強く筅を抱きしめた。だが筅はそんなさらさからあわてて離れようとする。
「……はな、…鼻水付いちゃうっ…よ……。」
「いいよ、制服じゃないし。」
 妙に律儀っぽくて、さらさは呆れながら軽く吹き出した。そしてまた、強く筅を抱きしめ、そしてようやく心の奥から安心した。さらさが目を閉じると、それを感じ取って筅もそっと目を閉じる。
 ………きもちいい……。
 思えば、こんな風に抱きしめられたのは初めてだ。筅は完全に落ち着いて、その体をさらさに預ける。深い所の息が吐き出されると、全ての汚い感情を浄化する様な新しい涙が流れ、どさくさまぎれに筅は甘えた。さらさはそれを許す様に背中をたたき、さすり、赤ちゃんをなだめるみたいに、体をゆりかごの様にゆすった。
 ゆらゆら、ゆられながらふと、筅の頭にぷかりと疑問が浮かぶ。誰かに知られる事もなく、こっそりと死ぬはずだったのにさらさはそれに気付き、ここに来た。おそらく迷う事も、なく。
「……何で、解ったの?」
「は?あんただって私の居場所、解ったじゃん。」
 確かに、昔さらさが酔っぱらいにからまれて危ない目にあった時、離れた所からそれに気付いて助けに駆け付けたのは筅だった。そしてそれがきっかけでぎくしゃくしていた互いの仲が何となく戻ったのだが……。
「なーに不思議そうな顔してんのよ。」
「え、だって……。」
「私は、あんたみたいに思う事まではっきり解んないけどね。でもつながってるのはあんた一人だけなんて、ないでしょ。」
 さらさは何言ってるの?という表情をしてあっさりとそう言った。そう言われると、確かに納得出来る。だが頭ではそうやって理解したが、何だか不思議な感じがして、もやもやする。
「……うん……。そっ、か。」
「何呆けてんのよ。」
 今まで筅は、一方的に感情を盗み見ているんだとばかり思い、罪悪感と劣等感を抱いてきた。だが双方向に、互いに通じていると、つながっていると、そうさらさが言って、必要としているのは自分だけではないと、そう言われた気がして、嬉しかった。それは当然で、当り前で、考えるまでもないけれど、二人だから双子だと、そう気付いた。
「心配、した?…だから急いで来たの?」
「またぶつわよ?当り前でしょうが。」
 またじんわりと、泣きそうになるほど嬉しかった。仕方ない≠じゃない、どうでもいい≠じゃない。さらさにとってそれは考えるまでもない℃魔ネのだ。彼女にとってそれが常識≠ナ、それの他には何もない。
『私はね、あんたを憎んだ事なんて一度もないの!』
「……さらさ……。」
 この人を、守る為にありたい。救う為に、支える為にありたい……。怒るだろうけど、僕の代わり。この人を傷付けるくらいなら、自分なんて簡単に捨てられる。
「何よ。」
「ありがとう……。」
 筅がほほえむと、さらさはむっとする。
「また、ぶたれたいの?」
 誰かに好かれたいと思う。誰かに、必要とされたいと思う。言われたい言葉がある。だけどそれは誰でもいいという訳じゃなくて……。
 それは、当然だろうか。
 それは、わがままだろうか。
 僕は、贅沢だろうか。
「いいよ、ぶっても。」
 さらさは驚いた様な、呆れた様な表情をしたが、筅は変わらない。真っ直ぐにさらさを見つめ、ほほえんだ。
 ……何をされても、構わない。

 その人の為なら、自分なんて簡単に消せる。



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