7・世界が変わる。これからも。

「お、はよう…。」
「うはよー。」
 起きてダイニングをのぞくと、もうさらさは朝食を終えようとしているところだった。
「えぇと、時間…。僕の部屋の時計、遅れてないよね。」
「ああ、うん。昨日の自習プリント私やってなくって。写さしてもらおうと思ってさ。今日の一限だし、生徒指導のタツゴローだしさー。」
 さらさはにっこり言ったが、つまりそれは早く行くかなきゃというもっともらしい理由で、自分とは一緒に学校に行かないという事だ。
「あんたねぇ、せっかく早く起きたんだから、やれる所までは自力でやりなさいよ。というより、本来なら昨日のうちに終らせとくもんでしょう。」
「だってー、昨日は色々あったんだもん。」
 母の小言に対し、不服そうにぶーたれるさらさのセリフに筅は思わずぎょっとした。大事件も、隠したい事実も大した事じゃないみたいにむし返すさらさは、やっぱり女だと納得する。女は…怖い。確かに筅はさらさの思いは解るが、何故その考えになるのかなんていうのはさっぱりだった。
「じゃ、行ってきまーす。」
 洗面所で歯を磨いていると、その明るい声が聞こえてきてドアの閉まる音が響いた。
 ドアの閉まる音って…嫌いだ。
 筅は思わず眉を寄せる。それを隔てて別々になる、重く、鈍い決別の音。閉じ込められたみたいなどうしようもない不安に、自分で女々しさを感じながら筅は泡になった歯磨き粉を吐き出した。
 しっかり、しなくちゃ。
 鏡に映る自分を睨み付ける。そしてうっすらと赤く残っている、昨日さらさに殴られた場所をつい、となぞった。かすかに痛むけれど、これは自分が生きている証だ。生きていいという、証。

「おっす、筅。」
 見計らった様にぽん、と背中をたたかれる。春樹だ。
「あ、おはよう。今日も早いけど…雨降るかな。」
「何だよそれ。…そんなんじゃ、なくて……。」
 そう言って春樹は口ごもり、筅は逃してしまいそうな微妙な違和感に気付いた。自分は春樹が登校してくる時間に合わせる事は出来ないが、春樹は決まった時間に登校する自分に合わせる事が出来る。そして彼は、さらさの事を聞かない。
「あんまりくっついてくるなよ。」
 不快そうに筅が言う。どういう考えでかは解らないが、春樹はさらさがもう筅と一緒に登校しないと思っている。だから疑問じゃない。さらさはどうした?なんて聞かない。
「……春樹とは、登下校したくない……。」
「何で。」
 胸がきゅっと痛くなる。どうしてそんな事を聞くんだ、なんて心の中で思っても相手には通じない。
「何でも。」
 もう筅は走ってその場から離れる事しか出来なかった。風がゆれて、その瞬間春樹の家の匂いがした。胸がつまって、息が出来なくて、泣きそうになって、朝食べた物が出そうになる。けれど、足は止まらなかった。
 そして下駄箱に着き、無造作に上履きを落とすと、ぱんっと乾いた音が立つ。転がった上履きの口を足の先で引っかけ、人差し指を靴べら代わりに中へと収めた。そして顔を上げる時、ついで、という風に校門の方を見て春樹の姿を探す。彼がいない、という事に穴の開いた安心を感じ、好きな人に対する態度じゃないなと思いながら、筅はゆっくりと自分の教室へと向かった。同じクラスだっていうのも今はあまり嬉しくない。
「あ、双子弟ー。」
 おっとりとした声が聞こえてその方向を見ると、名前はうろ覚えだがいつも保健室に居座っている先輩がにこにこ笑ってこちらを見ていた。
「保健室の……。」
「そ、小山こやま先輩だよン。」
 彼は春樹みたいに鈍くて、場の空気を解さないというタイプではない。現に今だって、思い出されない自分の名前を何気なく言った。彼は解っていて空気を妙に乱してくる。そもそもここは二年の教室前の廊下で、ふと天井にくっついている時計を見るともうすぐ予鈴がなりそうだ。
「どしたの?気分悪い?顔色あんまりー…て、何?喧嘩?」
「えぇと、ちょっと……。」
 小山は筅の顔をのぞき込むと、目ざとくうっすら赤い左ほほを見付けて手を伸ばす。てっきり手はほおにくるもんだと思っていたが、筅の予想とは違い、そのぬくもりは頭に来た。そして嬉しそうに笑いながらそのままぐりぐりと頭をなでられる。
「え、あ?せ、先輩?」
「あー。いっぺんなでてみたかったんだよねー。やらかそうだなーとか思って。うん、やらかい、やらかい。さっき双子姉もなでてきたんだけど、やっぱ感触そっくり。」
 この先輩は、朝っぱらから二年の教室を回ってこんな事をしているのか。彼ならやりかねないと思うと筅はがっくりと脱力した。
「んと、ちょっとキミらの事……、知ってるんだけどさ、何ていうか……、なるようにしかならないし、構えたり気負ったり……難しいかもしれないけど、しない様に心がけて、ね。」
 とたん、冷水をかけられたみたいに恐ろしく、寒くなった。突然、この人は何を言い出すんだろう。しかもわざわざ脱力させたところに。どの反応をしていいのか、させたいのか、して欲しいのかさっぱり解らない。
「……なるようにしかならないからさ、俺も。」
「な…にか、どうかとかするんですか?」
 自分でも莫迦みたいだと思うくらい呆けた声で、何故か相手の事を尋ねた。筅の頭の中ではそれどころじゃないだろうと独り劇が始まっている。
「ん、手術。帰ってきたら同級生になるかもね。」
「そう、ですか。」
 何で、そんなさわやかに言うのだろう。そんな風に言われたら逆に、何だか……。
「うん。俺いなくなっちゃうからさ、まあやちゃんよろしく。保健室とかちょくちょく見に行ってね。まあやちゃん怒るかもーだけど。」
 そう言って彼はまた筅の頭に手を伸ばしてぽんぽんとたたいた。その表情の裏にあるだろう彼の感情は、推し量れない。
「……キミはさ、絶対病院来ちゃ駄目だからね。検査に回されて薬漬けにされて、後は切り刻まれるばっかりだから。」
「……先輩?」
 恐ろしい事を言う割に彼の顔は落ち着いていて、変わらず筅の頭をなでている。
「恐るべし!病院の実体ーってね。そゆ事して病院って黒字にしてんの。人間てのは自然のものだから、本来はちゃんと自然に治る能力持ってんだよ。」
 これ≠ェ、治るのか……。相変わらずその先輩の言葉は軽い。けれど、深い。
「きっといつか、ね。」
 治れば、つながりがなくなってしまえばそれはそれで、寂しいのだろう。……自分は。
「ええと、あの、頑張って下さい。」
「ふん?……ふふん。君もね、弟。」
 お決まりかもしれない言葉をかけると、先輩は意味ありげに笑う。そして自分の用件は全てすんだとばかりに、彼はじゃあ、と言ってその場を去っていった。とたんに感じる、ストレス。あの先輩が意味ありげに言った言葉が原因ではない。彼が、どこかへ行ってしまう事の恐ろしさ。けれどそれは彼を特に思っているからではない。心配な訳でもない。残酷だけれど、失ったからといって身を切られる思いをするほど親しい間柄ではない。けれど、自分の周りが徐々に変わっていく焦燥感。今までとは違うという、戻れない事への恐怖。そんな不安感。彼にはただ自分の生活の、精神の安定の為にいて欲しかった。とめどない恐れと自分の心の弱さに、治まったはずの吐き気がよみがえる。
 予鈴が天井から鳴った。足下が、見えなくてぐらつく。いつまでも春樹の視線が張り付いている様で心が震えた。一日中、彼を無視し続けているのは、辛くて、やたら精神力を使った。

「筅。」
 放課後、さらさが廊下から筅に声をかける。それは帰りのお誘いではなく、昨日莫迦な事をやった自分をおそらく、見張るという思いなのだろう。けれど単純なもので、筅は声を聞き、姿を確認しただけで一日張りつめていた心がゆるんだ。そしてつい、ろくにさらさの表情もうかがわないで彼女に近付く。
「…………。」
「……………?」
 さらさがいまいちつかみ取れない表情をしているので、筅は首を傾げる風にして無言で問うと、何を思ったのか、さらさはふっと空気を放つみたいにして笑った。
「……あ、そういえばさらさ、朝先輩来なかった?」
「あー、来た来た。やわらかーいとか言って何でか髪なでられた。」
「う、ん。僕も。」
 返事をしながら筅はしまったと思った。あの先輩は、髪をなでた後に何て言った?どうして自分は彼女の負担になる様な事を、彼女を苦しめる様な事をしてしまうのだろう。だがさらさの表情は、何も、かすかに筅をいぶかしがるみたいな変化だけで、嫌悪には変わらない。
「……他に何かされたの?」
 さらさのその言葉に、筅は少し、少しだけびくんと反応してしまったが、何とか平静を装った。さらさが何も知らなければ、それでいい。
「ううん、……手術が……上手くいくといいなって。」
「……だね。……ねぇ、何か言われたんだろうけど、気にする必要ないからね?あの先輩が知ってる≠フはもうずいぶん昔からだし、まあやちゃんもそうでしょ?」
 心に何か滴がたれて、ぽつんとしみが出来る。ぽたぽたとしみが増えて、にじんで広がる。解らない。寂しい様な、居心地の悪いみたいな違和感。彼女はもうそんな事知っていて、守りたいさらさに何故自分はかばわれて、気を使われるのだろう。知らなかった。気付かなかった。……さらさが知っている事に。
 ……さらさ。さらさ、双子の姉。近くて遠い、存在。遠くにはならない。近くにも、ならない。
「あんた、もうちょっと開き直りなさいよ。」
「……む、無理だよ。」
「ふうん?あきらめるのは得意なのにね。」
 筅はむっとしたがそれは図星で、もぐもぐと口をにごした。それからふと、さらさの表情が変わる。視線を追って筅が振り返ると、そこには、春樹がいた。
「なァ、帰りー、…ちょっと俺に付き合わねェ?」
 おそるおそるといった感じで問う春樹に、筅は心の底から絶望した。さらさが側にいるというのに、この男はまた何て事を言うんだろう。悲しくて、消えてしまいたくなる。
「……朝、言った事もう忘れた?」
「そんなんじゃなくて、ほら、兄貴がさ?喫茶店で今働いてて、店とか任される様になったからとか言って、さらさも一緒に、さ。」
 何が、そんなんじゃない≠だろう。三人一緒に行くという事がさらさへの心づかいにでもなるのか。どうやったら、そんな考えになるんだ。さっき誘った時の視線は二人ではなく、明らかに自分の方だった。
「僕は、行かない。」
「何で?」
 その口調から春樹がむっとするのが感じられて、筅も張り合う様に春樹を一睨みした。ぴりっ、と重くなる空気。その間を割ったのはさらさだった。
「ねぇ、私は行くからさ、春樹地図書いてくれる?」
「え?あ、うん。」
 ……こいつ、絶対さらさの事忘れてた……。
 変な驚き方をした自分をごまかす様に、春樹はあわてて鞄からノートと筆箱を出す。さらさは春樹の側に移り、ずっと相づちを打ちながら説明を聞いている。シャーペンを持つ指先を見て、それからよく動く眉間を見て、笑う。春樹も自然な風に笑った。カッと、筅の内蔵が熱くなる。気が、変になりそうだ。さっき、存在を忘れていたのに。春樹はさらさの事を忘れたのに、春樹はさらさに笑う。さらさはそれでも春樹が好きだ。酷い奴なのに。鈍くて、莫迦で、頭が悪くて、なのに、……それでも。どうして。
「……ちょっと解りにくいかもしれないけど、看板は目立つから……。」
「ん、ありがと。あー、久しぶりだなぁ、冬生ふゆみちゃんに会えるの。」
 さらさはそう言いながらすっと立ち上がる。春樹から離れる形になって筅はどこだかほっとした自分に気が付いた。そしてそんな自分に気付いた様にさらさは筅の方を見る。目が合って、そらしたくて、出来なくて。そうこうしているうちにさらさは筅からすっと目を離し、春樹を見る。胸が、痛い。胸が痛い。痛い、苦しい、悲しい、……寂しい。
 説明が長引いた為、教室の中は三人以外空っぽだった。運動部のクラスメートが残していった制服からも、人の気配は感じられない。
「春樹は筅と帰んなよ。別に、私の事気にしなくていいし。」
 さらさは笑ってそう切り出し、そして去る時にもう一度筅の方を見て、視線がからむ。―――辛い。守りたいさらさにかばわれて、一番悲しいさらさに何故気を使わせてしまうのだろう。さらさが完全に前を向くぎりぎりまでずっと、目の端だけで視線は合わさっていた。さらさが背中を見せて遠くなっても、余韻が残る。
「帰る、か?」
「嫌だ。」
 筅は遠いさらさに視線を向けたままはっきり答えた。
「さらさが言ったんだぜ?」
 もう駄目だ。泣きそうだ。何故、春樹は絶望しか与えてくれない。
「だからって、はいそうですかーなんて、そんな簡単に出来る訳ないだろ?そんな単純なもんじゃないだろ!気持ちって。口で言った事が全部本心だと思うのかよ!」
 まるでしめられたみたいに喉が痛い。ひきつって絞られた声はやけに甲高く、自分でもヒステリックな女の様だと思った。だけど、そんな事は気にしていられない。抑えられない、けれど形に出来ないいらいらが体中からあふれ出す。
「確かに、お前の気持ちも解らなくはないけど、でもいつまでもさらさに遠慮する必要はないだろ?」
「いつまでもって、昨日の今日でかよ!お前は鈍いけど、鈍いだけじゃない!どうして自分の事しか考えられないんだよ!」
「そ、そんな事言うなよ!」
 筅の罵倒に、春樹は思わずどもった。春樹にしてみれば、何故そんな事を言われるのかさっぱり解らない。ずっと好きで、ずっと好きでい続けて、思いもよらず叶ったのに、これじゃあ以前よりも遠い。せっかく叶ったのだから、通じ合ったはずなのだから、少し、もう少しだけでも側にいたい。一緒にいたい。それは当然な願いなのだが……。
「……お前がー、さらささらさばっか言ってるから……。なァ、もうちょっと自分の事考えてもいいんじゃねェ?」
「さらさの事は、自分の事だ!」
 春樹は筅をなだめる様に、諭す様に言ったが、筅は大声ではねつけた。大体さらさの思いを知っていて、解っていて踏みにじれるなんてほど、自分はそこまで傲慢ではないし、偉くもない。さらさと自分の特殊な関係は、決して言う事は出来ないが、それを差し引いても、春樹は、筅にとってあまりにも無神経だった。全部話せない苦しみともどかしさで筅は完全に頭に血が上る。
「……バカ野郎!ふざけるな! !お前は、自分の事ばっかり考えて!この世に僕らしか存在してない訳じゃないだろう!それにしたって、僕の気持ちももう少し推し量ってくれたっていいだろう!僕が、僕がさらさと顔をつき合わせてどんな思いを………。」
 そのセリフを言うと、春樹の顔がありありとゆがむ。
「さらさが、どんな思いをしていると思ってるんだ……。」
 泣かずにいたつもりなのに、筅の瞳からは涙がこぼれる。そして春樹の表情のゆがみは完全なものになった。
「解んないだろーけど、僕の本当は、さらさなんだ。」
 ちりり、と違和感。だけどそんな事は胸の痛みで気付かない。
 あんな言葉、言わなきゃよかった。そういう思いは誰でも必ずある。後悔したって取り返しがつかない。もう帰れない、戻れない。

 世界が変わる。これからも。



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