8・優しくされる事が救いで、苦しみだった。

 外観からして、そこは入りにくかった。
 二階部分が何処かの事務所らしいその喫茶店は古くて、ちょっとさびれていて、いかにも常連さんしか入らない様な場所だったからだ。だが、悩んでいても仕方ない。せっかく足をのばしてここまで来たのだ。帰るのもしゃくだし、さらさはどきどきしながらその店に入る事を決意した。それでも不必要に店名を確認しつつ。
「あ、あれ?来てくれたんだ!久しぶりだねー。」
 店の扉を開けると、待ちかねた様な声がカウンターからかかる。店の中は変に薄暗い。まだその暗さに慣れなくて、さらさは目をしばたたかせながらカウンターの方に返事をする。
「お…久しぶりです。」
 ようやくその人物がはっきり見える。嬉しそうににこにこほほえむ彼は、幼い頃に見た時と変わらない。けれど、どういう態度をしていいかさらさは迷った。最後に会ったのはまだ自分が小学生の時だったし、年も八つ離れているのだ。確かに懐かしさで嬉しいが、とまどいの方が大きい。昔みたいに横柄な態度をするのはさすがに気が引ける。
「春樹と筅は?どうしたの?」
「うー…ん、私一人なの。」
 さらさがそう言いながら少し離れてもじもじしていると、彼はにっこり笑ってさりげなくカウンター席を勧めてくれた。
「ふうん?しょうがないなー。でもま、いいか。女の子来てくれる方が嬉しいし。大きくなったねぇ。美人さんになったし、見違えたよ。」
「冬生さん…も、働いてると印象違いますね。」
 遠慮しがちにそう言って、さらさはすぐ後悔した。彼の顔が解りやすく、悲しげにさっと変わったからだ。
「…えーと……、そんな緊張しないでよ。昔みたいに冬生ちゃんでいいし。俺もさらさでいい?」
 そのセリフに対してさらさがこっくりとうなずくと、冬生はほっとした様に笑ってかすかに肩をおろした。実は彼も緊張していたんだなと思うと、さらさは何だか安心出来た。
「あー、でもさらさが来てくれたの、嬉しいよ。ガキの頃はいっちばん可愛がってたからなぁ。妹欲しかったし。色々えこひいきしてたの覚えてる?」
「うん。」
 さらさはぷっと吹き出した。二人がいつもどうしてさらさばっかりー?と不満そうにもらすのを優越に感じて、冬生がいる時はいつも彼の側にいた。幼い頃はちょっと自慢で、悪い子でいたつもりはないけれどあの頃の自分は性格が悪かった。もちろんそれは小さい子特有のものだが。
「はい、これメニュー。あんまり多くないけどね。」
「おごり?」
 何となく意地悪い、いたずらっぽい顔でさらさは聞いてみる。すると冬生は両手を腰に当ててふんぞり返った。
「当り前。」
 その後すぐにほほをゆるめて嬉しそうに笑う。
「さらさならね。」
 特別は、健在らしい。甘やかされる事が、優しくされる事が今のさらさには大きな救いだ。嫌な事は全部忘れて、子供みたいにわがままに振る舞おうとさらさはつとめた。
「おすすめなーに?」
「んー?…オムライス、かな。」
 そう言って冬生はにっと笑う。
「実は裏メニューだったり。」
「あは、じゃ、それで!」
 明るくさらさは言ったが、その妙な明るさに冬生は気付いた。けれどそれが何なのか解らない彼は、その態度に気付かなかった事にしてそのままやり過ごす。
「いいの?夕飯は?」
「ん、じゃあ電話する。」
「へぇ、ケータイ持ってないんだ?」
 店の端にある古いピンクの電話に向かって歩いていくさらさの後ろ姿に、冬生は声をかける。
「だって二ついるもん。」
「友達用と彼氏用?」
「違いますー。」
 ちょっとむっとした声を出しながら、振り向かないでさらさは財布から十円玉を出す。鈴付きの、小さな蛙の根付がちりんと音を立てた。
「んーじゃあ彼氏用と浮気用だ。」
 冬生がからかうと、番号を押し終えたさらさは不満そうに下唇を突き出して彼を見つめる。
「冗ー談、ゴメン。……ゴメンって。筅の分だろ?」
「うん、私だけ持たせようかって話も出たんだけどね。」
「ああ、女の子だし……。」
 さらさがあ、という顔をして受話器を耳に付けたので冬生はそれから黙った。端々に聞こえてくる会話の中で、冬生ちゃん≠ニいう単語を聞いて冬生は妙に嬉しくなる。
「…じゃ、電話もした事だし、ゆっくりしてってよ。さらさが来ると思ってケーキも買ってきたしさ。好きだったよね、今でも好き?チョコケーキ。」
「あ、うん、好き好き!ありがとう冬生ちゃん。」
 今までとは全く違う食い付きを見せ、冬生は思わず目を丸くした。ケーキネタでこんなにも。……やっぱり女の子だからかなと思う。
「何?」
「いや、やっと、ちゃんと笑ったと思って。」
 この男は、おっとりと笑いながらずっと自分の変化をうかがっていたのかと思うと、さらさはどことなくまずそうにする。
「冬生ちゃんて言ってくれたし。」
「……呼べって言ったの冬生ちゃんでしょ。」
 少し睨む様に上目づかいでさらさは冬生を見るが、嫌味も悪口も彼には届かない。軽く笑ってそうだねと返された。こういうところは、春樹と似ている。
「ガッコ楽しい?」
「んー、…まあ、二年になったしね。」
「ああ、一番遊べそうだよね、高二って。」
 悪い遊びはあんまりしちゃ駄目だよと付け加え、冬生はさらさに紅茶を出した。今はコーヒーの方がよく飲むんだけどな、と思いつつ、彼にとってのさらさはまだ昔のさらさなんだろうと感じた。
 冬生は何も知らない。何も知らずにただ優しく笑う。何も知らないからおだやかに笑える。変わらない特別扱いはまるで哀れな子にされる同情の様で、ただ今は、劣等感しか感じないが……。

 優しくされる事が救いで、苦しみだった。



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