9・季節だけは変わらず、変わらないままやってくるのに。

「谷先生……。」
 部活で怪我する生徒を待って保険医が残っていると、ドアの方から声がした。そこには一人の男子生徒。怪我でも病気でもなさそうだが、妙にくたびれた様なオーラを放っていた。
「ん?んー…と、ああ君かい。」
 そのあまりの覇気のなさに、保険医は誰だったろうかと一瞬迷うが、胸の名札でいつも保健室の常連の双子を見舞いに来る少年だと気付けた。
「……たく、やだねー。あいつがまあやちゃんまあやちゃん言うから、谷先生とか言われても反応出来なかったよ。」
「?いつもここにいる先輩ですか?」
 どこか呆けた様に少年が尋ねると保険医は自嘲するみたいに、眉を寄せてかすかに笑った。
「……戻ってくるのかね、あいつは。」
 独り言なのか、深い様な、低い声で保険医はぽつりとつぶやいた。そういえば春樹は誰の事だったか、手術とか入院とか、そういう事をかすかに聞いた覚えがあった。
「君は?何?相談事?」
 さっきまでの事はまるでなかった風に、あっさりと保険医は話しかける。けれど突然話をふられた春樹は思わずとまどった。そもそもどうしてここに来てしまったのか、それすらも春樹は、気持ちの中で上手く説明出来ないでいた。
「あ、のっ……。」
「……いいよ、今人がいないし、座りな。」
 くすっと保険医は笑い、自分の目の前にある丸い椅子をすすめた。彼女は例え休み時間や放課後であっても、ここを休憩所代わりにする事を好まない。白茶色したマグカップにコーヒーをつぎながら、何か飲むかと尋ねてくる保険医を春樹は目の端だけで見て、自分は今どれだけ酷い顔をしているんだろうかと思った。柱にかかる鏡は、ここからではただ視力検査の電光板を映すだけ。
 ……どうして、筅なの?
 何でさらさじゃないんだ!何で僕の方を選ぶんだよ!
 ………そんなの、解んねーよ。
 無意識に深くため息をつくと、春樹はちらりと保険医をうかがう。例えば、コーヒーをすするその唇や白い喉元に、どきりとしない訳でもないのに。ふと、自分の妙な感情に気付いたのか保険医が春樹に目を合わせてきた。
「……話せばすっきりするっていうんなら、吐き出したいって思ってんならそうした方がいいよ。あの双子ちゃんの事でしょ?……もっと厳密に言うと、双子弟の事。」
「………聞いたんですか?」
「ん?双子に?…双子ちゃん達は何も言わないよ。」
 春樹は彼女が知っている℃魔ノ驚きはしなかったが、双子が彼女に何も話していないという事がただ意外だった。端から見れば、心の内の全て話しているんだろうと思うほど親しそうに見えたのに。
「あの子達はちょっと、特別だからね。」
 そのセリフの特別≠ェ特殊≠ノ聞こえたのはまず間違いがないだろう。
「……先生は、その、……偏見とかないんですか?」
「まーね、これでも保険医だし、一応カウンセリングの資格とかも持ってるしねー。その手≠フ事ってのは案外めずらしいもんでもないのよ?」
 それが本当なのかただの慰めか、それとも両方なのか春樹には見当もつかなかったが、ただ幾分か楽になれた事は事実だった。見えない縁に立っている自分を、少しでも地図の上にある様に出来ればいい。
「くさい事言うけどね、恋≠チていうのは一人でも出来る。でも恋愛≠ヘ一人じゃ出来ないのよ。」
 どきりとした。そしてその言葉は春樹の胸の中をすとんと落ちる。当り前の事にようやく気付けてただ、驚く他なかった。
「一人の時は、相手を思う自分の気持ちを大切にしてりゃいいけどね。……ってこれは相手をかえりみないって意味じゃなくてよ?……で、けれど二人の時は相手が自分を思ってくれる、その気持ちを大切にしなくちゃいけない。」
 保険医はそう言って、かすかに笑ってまたコーヒーをすする。しばらく、春樹に考える時間を与える様に。その沈黙に押される様に春樹は自分を振り返ってみた。
 ずっと、心の中でだけ好きだった相手から告白されて、有頂天になって。その相手の姉からも告白されたけれど、どうしたって自分はその相手の方が好きで。けれど、相手は姉の事を思って、まるでなかった事の様に振る舞って。それを責めたら怒られて、なじられて。……自分は間違った事をしたとは思えない。けれど、罪悪感だけはしっかりある。
「……好きだからこうしたい、恋人だからああしたい、相手の事がいちいち気になって口を出したり、問いつめたり、確認したい事だって時によってあると思う。けど、好きだから、恋人だからっていうのは決して免罪符にはならないのよ。」
 保険医の言葉が耳に入ってきて、ああ、と春樹は思う。多分、だからなんだろう。だから自分はこんなに苦しくて、罪悪感を感じているんだろう。
 どうして自分の事しか考えられないんだよ!
 そんなの、お互い様だろ?……お前は気付けてないみたいだけど。
 ふっと、軽く自嘲気味に春樹は笑った。そして何故かふと、鞄の中に弁当箱が入っていない事に気付いた。今取りに行かなかったらきっともう思い出せないだろう。今度忘れたら弁当を作らないよという母の脅迫もあった。
「……ちょっと机に弁当箱忘れてきたみたいなんで、行ってきます。」
「ん、はいよ、行ってらっしゃい。そろそろ暑くなってきてるし、気を付けな。」
 それでも、彼の顔に影がなくなった事に保険医は気付いた。
「はい、ありがとうございました。」
 そして春樹は一礼して保健室を出ていく。彼の足音が遠ざかるのをしっかり聞いてから保険医は、安堵からではなくため息をついた。
 そんな単純なものじゃない……。
 本能的にか、彼女には解っていた事があった。
「あの子は、特殊だからね……。」

 放課後の教室にはもはや冬の頃の暗さは全く感じられない。ここで筅に告白されて、ここで、筅を抱きしめた。……あの時、俺達は出来上がった≠ニ思ったのは気のせいだったんだろうか。いや、気のせいなんかじゃない。……はずだ。
 あの時、……あの時。筅は体を預けるか、このままどうしようか迷っていて、それでも離れなくて。いじらしくて、痛ましくて、愛おしくて、切なくて。強く抱きしめる事は出来たのにあえて自分はそれをしなかった。
「好きだから。……ずっとずっと、好きだったから。」
 ちょっと考えれば筅がさらさにべったりなのはもうずっと、知っていたはずなのに。幼い頃からいつも筅はさらさを立てる様に、さらさに気づかう様にせせこましくしていた。けれどさらさは、それをただ当り前に受けているだけで。幼心に良い事は悪い事に比べて伝わりにくいんだという事を感じ取った。
 そして後に、愛しい≠ニいう言葉に可愛い≠ニ可哀相≠ニいう言葉が含まれている事を知った……。
「筅……。」
 ちょっと考えれば、どれだけ自分が筅を思っていようと、筅は両天秤にかけた時、残酷なまでにさらさを選ぶ事を知っていた。
 ……蒸し暑い。こんな所に弁当箱を放置しておけばもう腐ってしまうだろう。
 息が、苦しい。
 知る事と、解る事は全然違う。

 季節だけは変わらず、変わらないままやってくるのに。



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