10・その感情は、とても甘くて、幸せなものだと昔は思っていた。

「……駄目だ……。」
 筅はわざと音を立ててシャーペンを置いた。そして集中出来ない、と一人つぶやく。さっきまでは妙にさえてすらすらと問題を解いていたのに。……そもそも変なのは最初からだ。宿題でもないのに自分の嫌いな数学の問題集をやるなんて、ありえない。
 何をやっても気分が落ち着かない。どうしたって落ち着かない。何かする事でさらに落ち着かない。どうしようもない。
 そういえば、最近さらさの心が解らない……。
 それは決してあの力≠ェ衰えているという訳ではない。それだけ解る。そしてさらさの気持ちがただ理解出来ないという意味でもない。元々気持ちというのは雲みたいに見えるだけで形も感触もない、ただある≠烽フだ。けれど今は見る事も出来ないみたいな。目隠しをされているみたいな。
 ……ブロックされているみたいな?
 筅はぞっとした。年月を経る事でさらさにそんな力が付いてしまったんだとしたら。心は持っている本人だけのもので、人にのぞかれたくないと思う事は当り前で。なのに疎外感を感じた。
 今自分の気持ちを見せてくれないのは、春樹を取ってしまった筅への醜い感情を見せたくないという気持ちからかもしれない。……けれど。
 どうして僕はそれさえも知りたい……。
 訳の解らない感情が筅に広がる。独占欲の様な。嫉妬の様な。筅にとっての、さらさという存在。ただ絶対的で、強い、強く思うただ一つの存在。それは春樹よりも、春樹よりも、春樹よりも、春樹よりも。誰よりも。……生まれた時から、生まれる前から一緒だったんだ。
 ふと、机に飾ってある淡い白緑びゃくろくの色をした石が目に入った。この色が好きなのは、小さい頃からずっと変わらない。忘れもしない、この石は小学生の時、近所の家の玄関にあった置き石を取ってきたものだ。石は二つ。これよりもっと丸くて形のいい物は、さらさに。
 何となく石を手に取り、そしてそっと唇を付けた。石は光を受けてやわらかな色を放っているというのに、その感触は固くて冷たかった。
「……マネじゃない。」
 ぽつり、と筅はつぶやく。
「僕も好きなんだ……。」
 ……そのはずだ。
 見つめている時は気付いて欲しい、こっちを見て欲しいし、けれど目が合うと何故かそらしたくなるほど切なくて、ゆるく抱きとめられた時は心底幸福だった。幸福で、なのに苦しくて、心の穴を埋める様に匂いをいっぱいかいで。どうしたって、何をしたって足りなくて、……欲しい、と。そう思う。けれど彼が口を開けば……。
 思いを込める様に筅は強く石を握りしめ、胸のところに当てた。……けれど、自分はさらさを選ぶだろう。どうしたって、どうしても。
「!――さらさ!」
 気配を感じ、筅は思わず声を出して立ち上がる。そして一呼吸くらい置いてから電話の音が響いた。思わず、ほっとする。まだ自分と彼女はつながっている。石を机に戻してそのまま部屋を出、筅は電話が置いてある廊下の方をうかがった。
「あ、筅。さらさ冬生ちゃんの所で夕飯食べてくるって。」
 電話の応対をした母親が、二階で様子を見ている筅を見付けてそう声をかけた。
「うん。」
 うん、解ってる。
 筅の唇がゆっくりと弧を描いた。
 冬生がさらさの逃げ場になる事を、自分とさらさの潤滑油になってくれればと……願った。
 部屋に戻り、筅は問題集を閉じて机の電気をぱちりと消す。毎週見てるドラマのビデオを録らなくては。
「あ、そうそう。毎週見てるあれ、ビデオに録っといてくれってさらさが。」
 台所で母が声をかけた時には、筅はビデオのリモコンを手にしていた。
「うん、今やろうとしてるとこ。」
 適当なテープを取って巻き戻す。画面では前録られた番組がキュルキュルと逆に流れていった。
「……………。」
 平安な訳ではない。ただ、静かなだけだ。

 食事をすませ、筅は母としばらくテレビを見ていたがどうにも母の笑いが遠くて、おもしろくなくて二言三言交わした後、部屋に移動する。母は何も知らない。もし知っていて知らないふりをしているんだったら、よっぽどの神経に違いない。
 もし、知らないふりをしているんだったら、きっともう、……生きてはいけない。
 筅がドアのノブをつかもうとしたところで不意に電話が鳴った。さらさ…―――じゃない。
「筅ー?電話。春樹君からー。」
 母の声が、響いた。
 のろのろと下りてきて受話器を取ると、母は居間の方に戻っていった。テレビの続きを見るんだろう。ふと電話を見ると、親しいからいいだろうという事なのか保留ボタンが押されていなかった。
 これは電話だ。……目の前に本人が立っている訳ではない。なのに体中しびれて感覚が失われていく。
『……あ、筅?』
 それ以外、ありえないのに。春樹はそう言った。
「うん、待って、…今子機の方に変えるから。」
『いや、いいよそのまんまで。すぐすむ。』
 すぐすむ用事?……春樹の声は少しだけ明るい。
「……何?」
『どうなったって、どんな事があったって結局、俺の気持ちは変わらないって事。』
「えっ。」
 筅は驚いたが、春樹は笑った。わざわざ電話で言う様な事には思えなかったが、彼は満足したみたいだった。
『……それだけ、言いたかったから。』
 電話の声は少しだけくぐもっていて、いつも聞いている彼の声とは少し違って、けれどそれは春樹の声で。
『だから、待っていられると思うから。』
 鈍いし、莫迦だし、頭悪いし、……それでも。
 ―――それでも。
『……好き…だから。』
 筅は、何も言えなかった。
『お休み、明日な。』
 機械を通しても解る、いつもよりやわらかい優しい声で諭す風に春樹は筅に言った。明日、会えばまた何かが変わるのだろうか。
 受話器からは通信を切った後の一定な機械音がこぼれていたが、声をかければまだつながっている気がして筅はそれを耳に当てたまま動く事が出来なかった。
 春樹……。春樹がさらさをないがしろにするのは絶対に許せない。耐え切れない。春樹の事は好きだけど、さらさは春樹の事が好きで、さらさは大切で。どうしても。嫌がられたって、どうしたってさらさの事を自分から断つなんて出来ない。
 待っていられると思うから。
「ただいまー。」
 自分だって気持ちは変わらない。けれど、さらさを見ると、さらさがいると思いは変質してしまう。
「何してんの、あんた。」
「……オカエリ……。」
 筅はさらさから目を離さないまま、妙に無機質な声でそう言って受話器を置いた。さらさは少し眉を寄せたが、特に何も声をかけずに筅の横を通り過ぎていく。
 きっと、僕は上手く笑えてない。
 どうすればいいのか、どうしたいのか、まだ自覚出来ないでいた。
 近くにいればいるほど、違う≠ニ思ってしまうのは何故だろう。痛さも、苦しさも、切なさも。その匂いをかげば、めまいがするくらい……春樹が、好きなはずなのに。
 ……解らない。

 その感情は、とても甘くて、幸せなものだと昔は思っていた。



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