11・きっと、時間が経てば全てが、……全てを。 「あれ?ゆっこ今日体育休み?」 「しんどいもん、二日目ー。だるくてやる気しないし。」 次の授業は体育なのでさらさは着替えていたのだが、友人のゆずこはその目の前で座っているだけで全く用意していないでいた。女なら解るだろうが、立ちたくないのだ。そして立ったら立ったでもう座りたくない。つまりちょっとでも動きたくないのだ。 「ふーん?あんた周期おかしくない?確かこの前私と一緒だったのに。」 「んー?どうだろ、私カレンダー付けてないから。まあさらさみたく重くないからそんなに辛くはないけどさァ…面倒だよねー。」 ゆずこはぴったりくっ付けた膝頭の上で指を遊ばせつつそう言った。いつもは足を組んでいるのにと、さらさはかすかに同情の様な思いを寄せた。 「あ、今日さー、帰りケーキ食わない?食い放題!」 「あんた女の子の日じゃないの?」 「えー、お腹すくよー、生理中。」 けらけらっと軽く笑う友人を見てさらさはさっきの同情を取り消した。同じ女でどうしてこうも毎月の辛さが違うんだろうか。……恨めしい。 「どうすんの?てか行こうよー。最近ずっと付き合い悪いじゃん。男んとこ行ってさ。」 「別にそんなんじゃないよー。ただの、幼なじみ。」 さらさはどこか友人の目線からさける様に視線を斜めにした。それは、着替えた時のたまたまのしぐさだったかもしれないが……。 「むかつくー。別にーだってー。やっぱもろいよねー、男が出来るとねー、女の友情なんてねー。」 「だから男じゃないって。」 「はー?知らないしー。決まり、今日行こ!そしておごれ!」 ゆずこはびしっ!という効果音が付く様な勢いでさらさを指さす。その動きが何だか妙に完璧で思わずさらさは笑った。 「何見てんだ?」 何だかほんわりと、けれどじっと窓の外を見ている筅に春樹は近付いてそう言った。そのまま隣に来る春樹に、筅は振り返らずに肩をびくりとゆらす。ひょいと外を見ると、筅の見ているものはすぐに解った。今日、隣の隣のクラスの女子の体育は外らしい。 「……シスコン。」 「あ……んまり近寄るなってば。」 「何で、普通の距離だろ?」 確かにそう言った春樹の言葉は正しくて、シスコンという言葉に対するただの負け惜しみの様がした。けれど普通の友人関係なら気にしないその普通の距離≠ヘ、春樹だと心がせわしくて、落ち着かなくて。その事を言おうと思ったけれど、よく考えるまでもなくそんなのは照れくさいし、見られちゃいけないものを見られたみたいな気持ちも手伝って言葉がもつれ、軽い混乱をした。 「………だ…、だから……。」 「………何だよ。」 春樹は一体何なんだという風に眉を寄せ、筅を見つめる。筅は解っててやってるんだったら絶対許さないと思いながら、怒りをこらえてすねる子供の様な顔をした。何故かそのままじっと見つめ合っていると、意識はしていないのに妙に気恥ずかしくなって互いに赤くなる。 「……ムカつくッ……。」 「…………………。」 やり取りが何となく終ると、その様子の一部始終を見ていたらしい平井がふと声をかけてくる。 「お前ら、なーんか恥ずかしいなー。」 「がっ、なっ、んっ、うっ……。」 春樹の言葉がおもしろいくらいつまった。 ……そんな風だから、窓の外からの一つの視線に誰も気付く事はなかった。 「何してんの?行くよ、さらさ。」 さらさははじける様にその声に振り向き、小走りで追い付こうとする。 「……今日、やっぱケーキ行く。おごらないけど。」 「お!やったねー!うん、行こ行こ!」 「ね、駅前のピエール。あそこでいい?新装開店してから私まだ行ってないし。」 そう言って笑うさらさは、本当に、普通に笑っている様に見えた。グラウンドに向かう生徒達に混じって、さらさは普通だった。 「……私、バイトでもしようかな…。」 「何?どしたの急に。」 「別に?ただ何となく新しい事がしてみたいっていうかさ。」 ゆずこにはそれが、彼氏が出来た事でさらさがポジティブになっているという風に見えた。そして親友の幸せを心から思い、嬉しそうに、少しだけからかうみたいに笑って肘でこづいた。 昨日は雨だった。グラウンドの空気がねっとりと、暑い。 ……誰かを、好きになる事が悪いとは思わない。 誰かが、誰かを好きになる事を止める事は出来ない。 その誰かが、誰であっても。それが誰であっても。 一人で登下校するのはもう慣れた。 筅はまだ遠慮しているのか春樹と登下校していない。 あの二人が一緒にいるのを想像するだけで辛いし、見るのは三分も耐えられないだろうけれど、一緒に帰ればいいのにと思う事も本当で。 辛くない訳じゃない。 ほんの少し、妥協が出来る。 ほんの少し、悲しくなくなった。 ほんの少し、痛みに慣れた。 「どしたのさらさ、本気で走ってなかった?」 「うん…、ちょっと……。」 息を整えながら、さらさははたはたと手のひらで顔をあおぐ。体育の持久走なんて高校にもなれば、メンツのある陸上部以外は誰も真面目に走らない。 昨日は雨で、空気がからみ付く様に暑くて…多分、明日も雨になるんだろう。 「……ケーキ、食べ放題行くからさ。」 私は、笑う事が出来る。 なのにどうして。こんなに気分が悪いんだろう。 窓際だったらな………。 廊下側の席の筅はグラウンドに面した窓を横目でちらりと見る。部活動は何もやっていないけれど、運動神経のいいさらさの走る姿は手本の様にきれいなのだ。 ちょうど走り終ったらしいさらさと同じ様に筅の心臓は熱い。 あ、また陸上部の人からラブコール受けてる。 見えはしないけれどさらさの状態を感じて、筅は誰にも気付かれない様に喉の奥でくっと笑った。何となくそわそわして足をゆらしていても、ずいぶん年のいった生物の先生は聞き取りにくい声でもぞもぞと話しているだけだ。 ………あ。 不意に、ぱちりと目が合う。そういえば春樹の席は窓側の方だった。 シスコン。 先ほどのセリフを思い出し、気に入らなくて目をそらす。またむっとする様な妙な顔をしているんだろうなと思いながら、もう彼の方を向く気にはなれなかった。 もし、……もしも僕が女だったら……。 考えても仕方のない事が頭をかすめ、取り消す様に筅は頭を振った。そしてため息をつく。何だか大声で泣き出したい気分になってきた。 こんな思いは、誰にも解らない……。 女≠ノなりたい訳じゃない。ただ―――――。 「――桐尾君。次、資料集五十八ページの二のところから。」 「は、はい!」 突然の事に、筅は声を上げ、椅子を引っかけながら席を立ってしまう。クラスメートの失笑がもれ聞こえ、筅は一気に現実へと引き戻される。 ――――また。 一人、クラスの中で筅の失態に笑わなかった生徒がいた。 また、さらさの事を考えていた………。 疑問ではなく、彼はそう思う。がっかりする。いい加減、うんざりする。筅がさらさの事を考えている時だけはすぐに解った。そしてそれが、彼に関する一番よく解る事で一番解りたくない事でもあった。 この前感じた事は、間違いなく本心からで、そして筅に言った事は、間違いなく本心だった。だけど本当に自分に余裕がある訳じゃない。せめて、せめてもう少し筅の気持ちが見えたなら。 けれど、筅はさらさしか見ない。 最初に行動を起こしたのは確かに筅だ。でもそれは自分がうっかり現場を見てしまったからで。あれさえ目撃していなければ筅はまだ友達だった。あそこで筅が告白してきたのは単なる破れかぶれで、絶対にそれ以上の事は考えていなかった。あれを自分が見なければ、筅はずっと思いを黙ったままだったろうし、自分だって言うつもりなんかなかった。 自分と筅の関係がどんな風になっても、どうなっても、男だとか女だとか、そういうのを二の次、三の次にしても筅にとって、さらさが第一。 ―――きっと。―――いっそ、さらささえいなければ。 本当に、本心から思う訳ではないが、全く本心じゃないというのも本当じゃなくて。きっと、筅は春樹に対してそのいっそを思っていて、きっと、さらさはそれを筅に対して思っていて………。 誰だって、自分が一番可愛い……。 例え否定したとしても、筅は春樹がいなければと思っているのは絶対に、本当だ。好きな相手にそう思われる事が嫌で、辛くて、ますますそのいっそ≠思ってしまう。……堂々めぐり。 だから、少しでもそうやって嫌われたくないから、だから、物解りのいいフリをするしかないじゃないか……! きっと、それをそろって思っている。 きっと、それが真実。 本心のまま行動すれば筅は責める。思いやれば、安心して離れていく。 俺の事が好きなくせに。そう言ったくせに。俺はお前の事を考えて行動してやっているのに。――お前は。 『好きだから、恋人だからっていうのは決して免罪符にはならないのよ。』 自分の気持ちにうんざりする。 ただ、筅が好きなだけなのに。 どうして気持ちが、それだけでいられないんだろう。 「さらさ遅いわねー。ご飯食べてくる気かしら。」 そろそろ七時半を指す時計を見て、母がぼやく。この家では仕事の遅くなる父はのぞいて、いつも家族そろって食事をとる様にしていていたからだ。 「あんた何か聞いてない?」 何気ない母のその一言が、筅にとってはおそろしく無神経に聞こえた。さらさはもう、自分には何一つ言ってはくれない。喉の奥でうなる様に、何も聞いていないってばと言い放つ。積極的にさらさの事を感じ取ろうとも思ったが、それをすればさらさは本当に自分から離れてしまう。 「冬生ちゃんのとこかしら。……最近ずいぶん通ってるみたいだけど、あの二人付き合ってるの?」 「やめてよ!」 思わず強く言って、筅はしまったと息をのんだ。母は、別にあんたの事じゃないでしょと不服そうに眉を寄せるが、別段何か突っ込んでくる事はなかった。それに心の中だけで安堵すると、このまま筅はただ不機嫌で、八つ当りをしているだけだというのを演じるつもりで体ごとずいとそむけた。 「もうさ、さらさにだけでもケータイ持たせたら?」 「そうねぇ――、周りは皆持ってるんでしょ?」 まあね、と筅は答える。この時代、さすがに持っていない生徒の方が少ない。これでさらさを縛る事が出来る。けれど、それがあるからこそ周りも安心して、結果離れていってしまったらどうしようとも思って筅は不安になった。 ………僕は…………?さらさを、どうしたいんだろう………。 あ、と小さく声を出して筅が顔を上げると、遠くでキイと門の開く音がした。 「ただいまー。……もう、やんなったよもー!事故で電車止まっちゃってずいぶん待たされたしー、すっごい混んでてもう、吐きそう。」 帰ってきた早々さらさはそう文句を言ったが、その態度も声も、何もかもいつも通りで筅はほっと息をつく。 「お帰り。…お疲れ。」 筅が声をかけるとさらさは不機嫌に唇を突き出したままふい、と無視をする。今はそれでも筅は構わなかった。 いつかまた、ずっと幼い頃みたいに仲良くやれる……。 きっと、時間が経てば全てが、……全てを。 |