----Cry for the Moon.

 神代の頃、月を追いかける狼が月を導く夜の女を孕ませて、自分達が大おばあ様と呼んでいる女、ウルフベオルトが生まれたという。
 その話は嘘か本当か解らないが、ただ一族は狼の血を引いており、彼女がその一族の祖で自分達は全て彼女の子供である事は間違いなかった。美しいまま年を取らない彼女は白くも黒くもない肌、銀の髪、金色の瞳をしている。その瞳、最高に美しいその金の瞳は月≠ニ呼ばれ、そこに一族の力が宿るとされた。
 その月≠ヘ血の濃い薄いに関係せず、受け継ぐ者は奇跡と呼べるほどとても少ない。血族的には端の方になるのだが、兄のヴィヴィアンは両目に金を受け継いだ。これが一族にとってどれだけ喜ばしい事か。兄は、望まれ、祝福される幸福な子供だった。
 子供達に付けられる一族の名前は、ウルフベオルトのうち、ウルフかベオルトを継いで付けられるのだが、兄には喜んだウルフベオルトが自分の名前をひっくり返したベオルトウルフを名前に授けた。けれど何も受け継がなかった自分には、もう何人目か解らないベオルトモンドの名前が与えられた。
 兄は、優秀だった。
 聡くて、運動も出来て、月≠持ち生まれながらに全てを備えている兄は、周りの大人よりもずっと大人に見えていた。
 兄の事は嫌いではなく、むしろ幼心に凄いと、純粋に好きで。なのに成長と共に埋まらない差に心が引きつれた。兄の後ろで誇らしく立っていた自分。そこにいた自分。兄にだけそそがれる視線と、ついでの自分。消えてしまっている気がしてたまらなかった。どうしようもなく自分は―――今思えば、寂しかったのだ。孤独ではなかったが、寂しかった。
 両親から付けられた自分の名前はジェファソといったが、兄はほとんど自分をジュニアと呼んだ。兄にとっては絆を主張して、可愛がってそう呼んだのだろうが、それもいつしか支配され、虐げられている様に感じた。短くジェイ、と呼ばれる時もだ。どうして自分を構い、連れて歩くのか。それは人に比較させて、注目されるのを見せ付ける為ではないのか。聡いはずなのに、こんな思いは解っているはずなのに、兄はそうする。本心では、兄が自分を支配したがっているのではないと解っている。けれど、……こんなに苦しいのに。
 手を引かれると、そこからちぎれそうな思いになった。
 ずっと、子供だった。―――それは互いに。
 ただじれったさに、じれて、じれて。その思いが何なのか意味も理由も解らず、言葉も見付からず、ただ嫌だと駄々をこねるしかない。
 兄が、優秀な兄が当然の様に両親からほめられるのが苦しかった。分け隔てなく愛されていたはずなのに、あの金の瞳と兄の余裕が、あの金の瞳を持つからこその兄の余裕はたまらなく自分をいら立たせた。すねる事でしか両親の気を引けない自分が腹立たしくて、けれど自分にはそういう方法しか解らず、兄が気を使えば自分がどうしようもない子供だという事を自覚させられ、兄がなぐさめればいっそう惨めだった。
 そしてそれは学校に上がる頃、形の解らぬまま顕著になり違う形で現れた。金の瞳と独特のオーラをまとう……言ってしまえば浮いている兄。けれど鋭く優れていた兄には、いわゆる嫌がらせというのは通用しなかったし、そういう人間に対して、普通の人に対しても兄が目をくれてやる事はなく。……彼が唯一執着している自分に、兄への妬みが降りかかった。
 兄を異質だと、そしてただ疎ましく思う兄の同級生達や、また他学年の生徒達までにも憂さ晴らしの為にからまれて。その時には直接兄とやり合う勇気も技量もないくせに、と自分は兄を庇うのに、いや、それはどちらにとってもの言い訳にしか過ぎなかった。兄の事を厭うたが、憎しみを持って嫌いなのではない。でも、こういう状況は間違いなく兄のせいで。けれど本当は兄のせいではない。だからって、自分は絶対に悪くはない。
 ヴィヴィアンなんか、大嫌いだ……!
 塞がったやり場のない思いが、帰結したのはそこだった。
 それからは、徹底的に兄を避けた。兄と共にいれば災厄が降り注ぐ事はなかったが、例えどんな目に合おうと的にされようと、兄といる事よりそちらを選んだ。そっちの方が遙かにマシだった。
 自分だってウルフベオルトの子だ。それなりに直感もあったし、相手の動きを計って怪我をしない動きも出来た。徐々に場慣れもしていき、やられるだけでなく反逆までし始めると、……今度はそれが気にくわない奴らも出てくる。
―――おい!」
 ジェファソは、心でせせら笑う。呼び止めた相手は兄の同級の三人組。リーダー格である少年は、彼の胸元近くまである犬を連れて勝ち誇った様に笑っていた。あの犬に襲わせるつもりなんだろう。
 ―――莫迦な奴。
 表情には出さないでジェファソは喉の奥でくるくると笑った。狼の血を引く自分にわざわざ配下である犬をよこすのか。あの犬を放したら最後、逆に襲わせてやる。兄の様な特別な力はないが、犬を従わせるくらいは造作もない。本能の薄い人間よりもよっぽどやりやすい相手だ。―――ほら、もうすでにあの犬は気配を察して尻込みをしている。早く気付け、気付いてやれ。引くなら今しかない。
 狩りの前に、妙に気分が高揚する。狼である本質が、舌なめずりをする様にちらりと出るのを感じた。
「ばあか。」
 今度は嘲笑を表に出し、わざと挑発する。
 言葉を失った少年らは、本当は本当に襲わせる気などなかった。ただ、ジェファソが泣いたり謝ったり許しを請いたりするのを見て、気を晴らしたかっただけだった。けれど、彼から感じるこのプレッシャーは。先ほどの挑発に言葉を詰まらせたのも怒りからではない。少年らはジェファソの視線に磔にされ、目をそらす事も逃げる事も出来なかった。そして飼い主の少年はその重圧に負け、逃れる様に見せ付けていた切り札であった犬の鎖を解き、けしかける。
「レックス!」
 少年は犬の名を呼び、尻を叩いて向かわせようとしたが、犬はもうとっくに逃げようとしていた。足を強烈に突っ張らせ、首輪を掴まれているのをよじり、泡を吹き、体を反転させパニックのままその飼い主たる少年に、牙を与える。
 彼がそれにショックを受けた表情をすると、ジェファソは満足そうに冷たく笑う。自らの切り札に自滅して、怯えて、半泣きになりながら散り散りに逃げていく愚か者。
「くはっ…はははっ!あははは!」
 声をあげて体をよじり、わざとらしい風にジェファソは笑った。
 ざまあみろ。ざまあみろ。ざまあみろ。
 完全に思い通りだった。最初に勝ち誇って笑っていたあの顔は何だったんだろう。あんなにみっともなく逃げて。さんざん莫迦にして嫌がらせをし続けたこの、自分に。
「ば―――か!」
 ……けれど、心底おかしかったのに、何故だろう。涙があふれそうになった。



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