----Cry for the Moon. |
「ジェイ。犬に人を襲わせたね。」 どこから伝え聞いたのか、兄の口が静かに責めた。 「……僕は襲われたんだ。僕がウルフベオルトの子でなかったら、僕が襲われてた。」 「……けれどお前は、ウルフベオルトの子だろう?」 真円を描く金の月が、自分のした事を罪として見据える。何故、父母ではなく兄に咎められるのだろう。 「やりすぎだ。」 「僕は悪くない。」 「やりすぎだと言っているんだ。」 胸に、熱を持ったどろりとした不満が流れて反発し、これまでのものと一緒に喉を通ってぐっとせり上がる。 「じゃあ、僕が襲われて噛まれたらよかったっていうの?!」 「ジュニア、僕はやりすぎだと言っているんだ。」 気にくわない。相手の意図や自分の意志は全く棚上げなのか。 「悪いのは、あいつらじゃないか!」 兄の前で泣きたくはなかったが、瞬きをすればあふれてしまいそうなほどに涙がこみ上げてきて、その涙を払おうとする兄の手を弾くと、それはとうとうぱらりとこぼれた。 「……あの犬は悪くない。違う?……結局、他所へ引き渡されたそうだよ。」 瞬間的に、胸をえぐった。あの犬にとっての幸せというのは解らない。けれど、群れを大切にする性質を持つ同族として、家族と引き離される痛みと喪失感はよく解る。でも…どうして自分ばかり我慢しなくてはいけない。何で全部自分のせいになる。こんなのは理不尽だ。 一つこぼれてしまうと、呼び水となって涙は次々にあふれて頬を、顎を伝いぱたぱたと床にこぼれ落ちる。 「ジェイ…、ジュニア。……泣かないで。」 泣きなくて、泣いてるんじゃない。 「……解ってる。本当に悪いのはあいつらだから。」 なぐさめるな。自分のした事を罪だとしたのだから、こんなにも自分は罪悪を感じているのだから、いっそ、なじって責めればいいのに。 「ジュニア、ごめんね。」 どうしてヴィヴィアンが謝るんだ。こんなんじゃ、自分が謝らないのはただのわがままのせいみたいじゃないか。謝るなら言わなければいいのに。僕の心をかき乱すばかりで、何がしたいんだ!何が楽しい! けれど、次々あふれて矛盾する抗議の声は単なるうめきとして喉から出るばかりだった。 ―――嫌いだ。大嫌いだ。どうしてヴィヴィアンが僕の兄なんだ! うつむくと、すかさずヴィヴィアンの手が伸びてそれはジェファソの頬にふれる。はっと顔を上げる前に引き寄せられ、目線が彼の肩口になった。 僕に、さわるな……! 彼のせいではないけれど、彼がいるからなのに。どうしようもないのは解っていても、気持ちだってどうしようもない。なだめてもなぐさめても叱るのも許せないのだから、せめてふれないで欲しかった。関わろうとしなくても、それはそれで気にくわないとは思うけれど、放っておいて欲しかった。暴れて暴れて、ジェファソは抱きしめるヴィヴィアンの体中をめちゃくちゃに拳で打つ。 「ジュニア、泣かないで。…愛してる。」 首のところからぞっとして、ジェファソはヴィヴィアンを突き飛ばすが、ヴィヴィアンは背中からそれをも抱きくるめる。 「―――嫌だ!お前なんか、大っ嫌いだ!大嫌いだァ!お前なんか……!」 「……愛しているんだ、ジュニア。」 ―――― どうして、その言葉に自分を縛るんだ……。 避けるだけでなく、両親の前だろうと、大好きなウルフベオルトの前だろうと、兄に対しては苛烈といえるほどの接し方をする様になった。心配をする父母達には心苦しかったが、年の近い兄弟だから反発する事もあるだろうと、今は見守る事にしてくれたのがありがたかった。そう言ったのは父で、父は、一族とは関係のないただの人間だった。 誰にも解ってくれないと吐き捨てる気持ちを唯一汲み取ってくれ、嫉妬とも気後れとも付かない濁った感情を、その痛みをほのかに共有した。こんな気持ちは、ヴィヴィアンなんかには解らない。 仲が悪い訳でもなく、齟齬がある訳でもないのに、ふれる事の出来ない表と裏があるのだと。幼いながら身にしみて感じた。そしてそれにはふれない様に曖昧に濁す事。多くの大人がする様に、兄との関係もそうするのが一番なのだ。ヴィヴィアンは賢いのに、何故だかそれだけが理解出来ない。 「ジェイ、……今日は家から出ちゃいけない。」 久しぶりに口を利いた気がするそれは、命令ともいえる、忠告。表情からも気配からもただならぬ事だと直感したが、それを、無視した。 兄が理解出来ないのは、所詮、持つ者が、持たざる者に対してだからだ。 だから。 本当は、出かける気分も予定もなく、したかったのはただの反抗。兄の隙をうかがい、家を抜け出すと一気に走り出した。兄が追ってくる様な気配はしたが、振り向いたりはしない。放り出されるのは怖いのに、自由に、なりたかった。愚かなのは解っていたけれど、絶対に賢くもなれなかった。 逃げる様に公園へ行き、木陰に隠れる様に体を折り曲げて息を整える。息が、喉にからみついて目が軽く眩んだ。そして、ふと我に返る。 僕は、何をしてるんだろう……。 膝に当てた手を、ズボンを巻き込んで強く握りしめた。空しくて、泣きたいと思ったが瞳は乾いたままで表情だけが醜く歪んだ。勢いを付けて顔を上げ、息を思い切り吐き出してしまおうとした時、嫌な気配を感じて思わずそちらを振り向く―――と、目の前が瞬間にぶつっと真っ暗になった。 え………? 何が起こったのかとっさには全く理解出来なかった。前後して、周りがスローモーションになり、意識とは違うところで状況が把握される。何か顔に衝撃があって、気が付くと膝を付いていた。世界が揺れて、そして視界が反転して……地面に倒れた気もする。体の側面に固い物が当った感触、耳を強く打ち、空気が鼓膜を突く様に入って頭がくわんと揺れたみたいだという他人事らしい実感。景色は横倒しになっていた。一瞬の事だったせいか、それとも麻痺したせいか、指一本動かせないまま起こった世界にされるがままだ。片方の視界では周りを映しているのにもう片方は赤か、黒か、何かで塗りつぶされた様な。一体自分がどうなって、周りがどうなっているんだろう。 めまぐるしく駆け抜ける一瞬を、長い時間味わった。 左……?顔の左……。 解らない。何かで撃たれたのだろうか。けれど不安に思う違和感ばかりで痛みはない。……解らない。舌が根本からしびれ、喉に張り付いた様で声すらも出せない。思考ではないどこかで、実況する様に状況が映し出される。まるで生々しい夢。 自分は、どうなったんだろう。 どこかは冷静に鋭く、視界からの情報を淡々と処理していたが、どこかは鈍く、今起こった、起こっている事を受け入れずにいる様だった。 「―――ジュニア!」 兄の声が聞こえた気がした。 ……ヴィヴィアン………。 心で応えるその声は、届いただろうか。どうやら必死らしい兄の声はもう一度、また一度、耳に通る。 兄の声に安心して全身に感覚がわいて体が重いと感じる。意識が、手足がこわばって閉ざされていくのに反して、凍えていた瞼が、ゆるんでふうっと落ちた気がした。 言う事を聞かなくてごめんなさい……。 そうして全てが遠くなる。 返事を言う事も出来ず、手を握り返す事も出来ないまま。 もう、何一つ―――……。 |