----ばらいろすみれいろ |
ノックの音が響いたので、ジェファソはカルテと資料を置いた。何となく、何となくその相手を想像しつつ、くつろげた寝間着の襟を軽く正してドアの方にはい、と返事をする。 「ジェファソ?」 そっと扉を開ける声の主は、想像通りの相手だった。ここにいる以上、こうやって来る相手は大体決まっている。自宅ではないが、ここは兄の家にある事実上の自室だ。ジェファソはヴィヴィアンの気遣いでしばらく泊まる事になり、ウルフベオルトの気遣いで、彼女と一緒にホルダもしばらく滞在する。ずいぶんと策略に満ちた気遣いだが。 「今大丈夫?」 「ああ、うん。どうしたの?」 用事がなければ来てはいけない、という意味ではなかったが、それでも言葉にホルダは少し不満げに息を吐く。 「練習、しに来たの。」 「練習?」 「お 座って、とホルダはベッドを指示する。おとなしく移動をするとホルダはポケットから小瓶を取り出しながら膝で立ち、ジェファソを見上げた。 「目を閉じて。」 その言葉に何のためらいもなく目を閉じると、右目の瞼に薬を塗られる感触がした。ぬるりと瞼を滑る、指の感触。ホルダの爪はいつも短く綺麗に切りそろえられている。 「……下世話にも言う通り、一人の男には一人の女、お目々が醒めたらそう願おう。ジャックにはジル、そうしてめでたく幕閉じる。」 瞼に薬を塗られるのは毎年の事だが、かけられた言葉はルーンではない。一体何の練習なんだとジェファソが目を開けると、すでにホルダの言う練習は終った様で、勝手に目を開けた非難もなくにっこりと笑う彼女と目が合った。 「今のは何?」 「A Midsummer Night's Dream.」 真夏の夜の夢。その言葉をそのまま受け取ればシェイクスピアの戯曲だ。が、そう言われてもジェファソには、妖精の勘違いのせいで人間関係がめちゃくちゃになる話……くらいの認識しかない。 「えーと、そういう名前の 「シェイクスピアくらいちゃんと覚えててよ。」 呆れと拗ねの間の顔をしてホルダが言う。 「え?ごめん…、話の中で出てくる薬なんだ?」 「三色菫よ。」 「えー…と?」 とりあえず三色菫から作られた薬なのだとは解ったが、正直ジェファソが知っている花の意味や効果は薔薇やラベンダーほど有名な物くらいだ。花は趣味にする人も、誰か意中の相手に使われる事も多いが、ジェファソはどちらも興味がない。何か、特別な意味合いがあるのだろうか。あまり思い出したくなかったが、ジェファソは、ホルダに。 「答えは、保留にしておくわ。」 心臓が跳ねた。思い出したくなくて避けたい話題。答えを教えない事が、ではなく保留という単語を使った事は彼女のささやかな意趣返しなのだろう。とても間抜けな事にジェファソが保留したのは彼女への答えではなく、彼女との約束だ。引き延ばしたのはただの逃げたい自分のずるさ。 「……ホルダは、髪は伸ばさないの?」 話題を変えなくては、という思いから言葉がついて出る。言ってからすぐ後悔した。彼女が髪を伸ばしてくれたら彼女に対する自分の罪悪感は減るだろう。とっさには出てしまったが、ホルダにそんな事を願っているとは思われたくはなかった。 「髪?長い方が好きなの?」 「え、いや……。」 言葉をにごしたが、肯定と捕えたのかホルダは神妙な顔をしながら自分の襟髪をつかんで軽く引っ張る。縮れた黒髪はそうやると思いの外長く伸びたが、手を離すとくるりと元に戻る。しばらく熱心にそうやっていたが、諦めて息をついた。 「……ヴィヴィアンは、短いの似合わないわよね。」 しみじみ言ったのがおかしかった。その不意打ちにジェファソが思わず吹き出すと、だって、と困ったみたいな顔でホルダは言いつくろう。 「いや、僕もそう思う。」 同意すると、ほっとした様にホルダは顔をほころばせ、ジェファソもつられて口元がゆるむ。 「……ジェファソは。」 「うん?」 「短い方が似合うと思う。」 ふっと近付かれたと思ったら左目にかかる髪を捕らえられ、金の目をさらされる。 「……こら!」 とっさに出た非難のはずの声が何故か酷く優しくて、ジェファソは口元を押さえる。そしてごまかすみたいにため息を一つ吐き、隣に座る様ホルダを促してやる。目の前に跪かれて顔を向かい合わせているこの状況がよくないのだ、多分。ホルダは猫の子みたいに両手をつくと、するりと体を反転させてジェファソの隣に座り、ベッドは二人の重み分軋んで、たわんだ。 「……来年から。」 「うん。」 「ホルダが それを聞くとホルダは何だか得意げに笑む。 「その間ここから通えばすむ事よ。」 「ここから近いの?!」 「ここからの方が近いの。イーリーの寄宿学校を受ける事に決めたし。」 ええ、と素っ頓狂な声を上げ、何度も目をしばたたかせるジェファソにホルダはますます笑みを強くする。 「もしかして、名門じゃないの?」 「さあ、学校なんてよく知らないわ。」 事もなげにホルダは言う。完璧主義の伯父が娘の教育に手を抜くとは思わなかったが、彼女の勉強のレベルは一体どのくらいなのか、いやそれよりもこれまで自宅教育だったホルダが集団生活で上手くやっていけるのか。今ジェファソがそんな事を気にしても意味はないのだが。 「よく、伯父様が許したね。」 「父様は基本的に私のしたい事を止めたりなさらないわ。」 「いや、でも。」 大きな庭のあるあの家はずいぶん昔に引っ越しをしていて、現在のホルダの実家まではここからずいぶん遠い。娘を溺愛する伯父がそんな距離にホルダをやるだなんて。 「何かあったら貴方達を頼れるし。」 「ああ、…そういう事か。」 それで許したのかとジェファソは合点がいった。本当は許したくないんだろうが、娘に甘くもある伯父は押し切られて妥協したんだろう。おそらく、という名の確信。きっと遠くないうちに伯父からよろしくという挨拶があるはずだ。娘の事には本当に見境のない人だから、真顔で、何度も何度も念を押すに違いない、と浮かんでくる姿にジェファソは苦々しく笑む。 「貴方達にも、先に言えばよかったわね。ごめん。」 「いや、僕達は……。気にしないで、ホルダが決める事だから。」 「…そう。」 何故だかホルダが急に消沈して、ジェファソはまた慌てて思考をめぐらせる。 「あ、ねえ。お 「……?」 目をそらすみたいにうつむかれた顔が、くるりと幼びてジェファソを見る。苦しいばかりの話題にも、少なくとも表面ではその事に疑問を持たないホルダは可愛い、とジェファソは都合のいい事を思う。ホルダは少し考える風に視線を動かし黙考すると、それからひらめいた様に目を開いてジェファソを見た。信じられない物を、信じたくないといった風に見られて彼は、立ち上がるホルダを追いかけられない。 「知ってる、わ。」 振り向いてそれだけ言われると、冷たく扉が閉められた。後には腰を軽く浮かせてぽかんとするジェファソだけ。 ……意味が解らない。 解るのは自分が何か酷い失敗をした事だけ。 何か、悪い意味だったんだ。 少なくとも彼女と、おそらく自分にとって。 だから、チップは僕に飲ませたんだ……。 睨まれた。元々、意志の強さを感じる目をした子だが、さっきのは確実に睨まれた。やりとりとあの表情を思い返すとじわじわ苦みが胸に広がっていく。脱力してどさりと腰をベッドに戻し、そのままの勢いで突っ伏してうめくと、かすかに彼女の匂いがした。 懐かしい、花の様な匂いだ。 |