----ばらいろすみれいろ

 月が欲しいと、子供は泣く。
 月を手に入れた狼への羨望。昔から、今も、兄は自分にとっても血族にとっても特別で、かつてはそれが苦痛でならなかった。何故、自分が生まれたのだろうと思う。自分を見てもらえない切なさ、兄が構う惨めさ、兄を恐れて弟である自分をいじめる子供達への怒り。全てがやりきれない。
 でも、だからといって兄のしてくれた忠告に逆らうべきではなかった。
―――ジェファソ……。僕を、覚えてる………?」
 犯人は子供か大人か、的は自分か他の物か、どちらにせよ頭の悪い人間の仕業だ。嫌な予感がするからという兄に逆らい、ジェファソは左目を撃たれて死にかけた。いや、死んだ…はずだった。混濁した粘る闇の中を泳ぎ、何度も覚醒と昏睡を繰り返して彼は自分が生きている事と、違和感があったが左目が元に戻っている事に気付く。元に?いや、違う。
 ベッドに座ったまともに動けない体を、前から抱きとめる様に支えて体を拭いてくれる少年の左目には、眼帯があった。
 全身が総毛立つ。思いを言おうとも、まだ頭に言葉を生む力はなく開いた口からはうめきと唾液しか出てこない。月が欲しかった。けれど本当は羨ましかっただけで、兄の目を奪うなんて一度も思った事はない。なのに、二つそろっていた月をバラバラにしてしまった。
 兄は自分のわがままだから気に病むなと言ったし、両親や一族の祖である女は兄弟二人が生きている事だけを喜び、血族達も皆、祝いこそすれ彼を責める事はない。何度かはその祝賀に納得したが、目を閉じる度、思考がはっきりすればするほど後悔し罪悪感が去来する。時間の感覚はあまりなかったが、一ト月は経っただろうか。血族達の優しい見舞いを何度も受けたが、ジェファソの喪失感はぬぐえなかった。
 小さい唇が、ジェファソを慰めている。ついばみながら顔中をすべっていく。半分眠っていた重たい瞼を開けると、体はまだろくに動かせないので視線だけで相手をうかがう。短い黒髪の子供は自分とは親しい人物だとは思ったが、頭はまだ望んだ記憶を引き出せるほど回復はしていない。彼女の名前は、何だったか。
「……だいじょうぶ?ジェファソ。」
 大丈夫な訳がない。
「いたくない?」
 こんな状態を痛くないと思うのはおかしいだろう。
「ほしいものはない?」
 幾人にも聞かれたその言葉が、やけに自分を煽った。そもそもが取り返しが付かないというのに、こんな子供に何が出来る。きょとんとしたあどけない黒い目には悪意の欠片もないのに、その当事者ではない彼女を、罪の意識と自由にならない体の腹立ち紛れに傷付けてやりたいと思う。そういった気持ちは、彼女とはそれだけ遠慮をしない近しい間柄であったところからきているのだろうが、それはとても残酷な事だ。
「……ぅうばった。ぜんぶなぃ。ぼくのはない。ないんだ、ぼくのもの……!」
 ろれつの回らない舌が、めちゃくちゃに開いた思考の引き出しのまま訴えた。頭を枕に付けた横向きの口は唾液で溺れそうになる。投げっぱなしのとにかく伝えたい事があるとだけ解る訴えを、少年の様な少女はきょとんとした表情で反芻すると、やわらかな両手でジェファソの左手を握り込めた。
「しかたのない人だわね。」
 自分とは十も離れた少女は、やけにませた表情で軽く笑む。
「……じゃあ、わたしが、あなただけのものになってあげる。」
 衝撃は脳天を突き抜けた。何故そんな話になったのか。今、彼女を傷付けてやりたいと思った通りこれまで意地悪してきた自分が、弱っているのを見下しているのか。それとも兄の月を分けてもらった自分を兄の代わりにしようとしているのか。そうだ、いつだって望まれるのは兄だった。兄ばかり。そんな無邪気な顔をして。
「………わ、かった。きみが、ぉきくなったら。」
 それは兄への対抗心と、怒りが突き抜けてしまった虚脱だ。
「それってやくそく?」
「やくそく、ぅ。」
 ぼんやりと誓ってしまったが、どんなに子供だって赤ん坊の頃から叩き込まれて解っている。血族にとって約束は駆け引きだから守る必要はないが、血族同士で交わした約束は果たさなければ反逆だと見なされる。血への裏切りは血でもって償うしかない、と。けれどもう、どうでもよかった。半分死んでいるのだから、全部死んだっていい。
 少女の手は少年のハニーブラウンの髪をなですいて、慰めではないキスを唇に落とした。

 このまま心ごと潰れて死んでしまう、と思っていたが、それでも体が回復して心が痛みに慣れてくると生きる事に迷いがなくなってくる。ウルフベオルトの治療を終えて家に帰ってからは兄の自分への執着や独占が半端なくなり、その事を諦めるみたいに罪悪感を吹っ切ってやる。ホルダと交わした約束は覚えていたが、伯父が引っ越し、自分達も兄のわがままで家を出たので疎遠になり、ジェファソはあの時の事故と一緒に忘れた事にする。
 約束にはたっぷりと猶予があったし、彼女ともほとんど一年に一度ユールにしか会わない。約束した関係を匂わす素振りはあった気もするが、直接的なものはない。約束した時、まだ彼女は三歳ばかりだったはずだし、きっと忘れている。ホルダが追いかけるのを兄弟達が逃げる、そんな関係に戻っただけだ。

 ―――君が、大きくなったら。
 彼女は十六になった。



前へ ・ 戻る ・ 次へ