そこは、小さなぼろい時計屋だった。古い為に壁がすすけた様に暗くなっている。二人は裏の玄関からではなく、表の店の方から入っていった。帳場にくっついている仕事台には、昔気質で融通の利かなそうな頭の薄い親父が、細く小さなねじ回しをその短い指で器用にちょいちょいとやっている。その姿は真剣そのもので、こちらをちらりとも見ない。薄い髪の間からはじっとりと汗が吹き出していた。 「とーしおー!友達ー!」 母親は荷物をよいしょと運びながら奥へ行く。声はすぐ返ってきた。 「友達ぃー?」 「ア、ウエノトシオ、サンですか?」 男は親父に向けられていた目線を俊男に合わせる。俊男は軽く黙ると戸惑う様に口を開いた。 「あぁ、そうだけど……。」 「アノ、すこしハジメマシテ。ブランドン・ステイモスです。」 その時、密かに親父はちらりと目だけで男の方を見た。俊男は何処かで会った様な気がして、眉をひそめていたが、突然顔をぱっと変える。思い出したのだ。 「あー、ああ!交通事故の……!」 「ハイ、ハイ!」 フィーリングで思い出してくれた事が解り、男も顔を輝かせた。 「それで、わざわざこんな所まで?」 「ア……。」 ここに来た理由を話そうと思った時、母親の声がかかった。 「とーしおー!とりあえずお茶淹れたから、上がってもらいなさーい!」 「んじゃ、まァ上がれよ、ブア、ブア、ブア…ステ……?」 名前が出てこない。何だか発音が凄かった気がする。 「ブランドン・ステイモスです。ブランドン、でいいです。」 「ブァンドン?」 微妙だ。しかしブランドンにはいい発音に聞こえた。 「イェス。」 「それじゃブァンドン、俺は俊男でいいや。」 通じた事で、俊男は喜んでそう言った。 狭い、客間兼居間にブランドンを座らせ、それから俊男は座った。そしてすぐお茶が並ぶ。母親はすぐに台所に立って夕飯の用意をし始めた。 「トシオ、ホントウ、ありがとう。ボクはあぶない。シヌ……だ。」 ブランドンは日本人の様にぺこりとおじぎをする。 「……危なく死ぬところだった?」 俊男は言葉をつなぎ合わせて推理をした。するとブランドンは嬉しそうに手を叩く。 「オウ、ソレ!」 俊男は心の中でミ〜オ〜♪、と入れる。入れてからしょうもないな、と頭をかいた。ふとブランドンの方を見ると、彼は幸せそうにこちらを見ていた。 「Thanks.……ありがとう。」 「……まあ、煎餅でもかじりなよ。」 真っ直ぐ目を見て言うブランドンに気恥ずかしくなって、俊男は煎餅を勧めた。それからお茶をずっと飲むと、彼は調子を変えてブランドンに話しかける。 「危ういけどさ、日本語結構出来るじゃん。」 「ハイ、ボクのおかあさんはにほんジン。」 言葉が通じると、ブランドンはこくこくと必要以上にうなずいた。 「え?ハーフってやつ?…はァー、初めて見るよ。」 俊男はぶしつけにじろじろとブランドンを見る。ブランドンは、その視線にどうしたらいいのかと少し戸惑っていたが、ゆっくりとたどたどしい日本語で説明を始めた。 「……ボクのおとうさん、タイシのおてつだいする、した。」 「たいし?…ああ、大使、か。へぇ、大使館で働いてたのか?」 「ハイ。そしておかあさんにあった。おかあさん、おじいさんにカンゲキ≠ウれた。」 ちょっとこれは難しい。俊男は頭をひねった。 「感激?…かんげき、かんげき……。あ、かんどう≠ゥ。勘当と感動は字も意味も違うの!」 「すごい、トシオ!それ。」 やっぱりあんまり日本語出来ないかも、と俊男は思い直した。 「……トシオ、そしてボクおれいするきた。」 「お礼しに来た。……でも別にいいよ。まァ正直言えば多少期待はしてたけど、ただ…わざわざこう来てくれて嬉しいし、俺もいつ血が必要になるか解らないしな。」 しかしすでにブランドンはその物を渡そうと、すでにポケットに手を突っ込んでいる。 「……でも……。」 「いらんいらん。」 俊男は大げさに手を振った。もらうとその後の関係が少し悪くなると、無意識に思っていたからでもあった。 「ブランド君、今日ご飯食べてきなさいな。もうこんな時間なんだし。」 母親がお勝手から声をかける。よく通る声だ。 「ア、でも……。」 「何?家何処?仕事…やってるとか?」 俊男が湯飲みを持ちながらそう言った。だがブランドンは本当に切なそうな顔をする。 「チガウ、でない。…よくない?えーと……。」 すると母親がお茶を片付けにやってきて、ブランドンの肩を叩く。 「遠慮しなァいで、沢山作ったから食べてくれないと困るのよ。」 「今日何?」 俊男が首をそらして母親に夕飯の内容を聞く。 「肉じゃがよ。」 「んじゃ喰ってけよ。」 肉じゃがは家族の好物だ。いつも大量に作る。あの玉葱と人参の微妙に甘いところがいい。密かに家の肉じゃがが一番だと思っている。ブランドンは頬を赤らめた。 「えーと、アリガトウ。トシオ、ノリコさん。スキ。」 「まァ、愛の告白?」 頬に手を当ててそう母が言うとすぐ、どかどかと、やかましい足音が聞こえてきた。 「莫迦か!」 「あら父ちゃん。」 「ビールだ、ビール!ビール持ってこい。」 父親はそう言ってテレビをつけると、ブランドンの斜め前にどっかと座った。自分に怒っているのだと思い、ブランドンは縮み上がる。 「アワワ、オジャマです。」 「お邪魔してますだよ。気にするなブァンドン、父ちゃんはいつもこうだ。」 俊男が笑いながら教えてやった。だがまだブランドンは父親に怯えている。彼が振り返るとびくりと肩が飛び跳ねた。父親は別に気にせず、ブランドンにビールをついでやった。 「それで、どういう知り合いなんだ?交通事故とか言っていたが……。」 「ああ、うん。俺が捻挫で行ってた病院にブァンドンが運び込まれてきてさ、俺が輸血したの。……それよりブァンドン、すっかり元気そうだから聞いてなかったけど怪我はいいのか?」 俊男に声をかけられ、一瞬父親の事を忘れたブランドンは顔色を安心に変える。 「えーと、ハイ!」 「……意味解ってるか?」 眉をひそめながらじっとりと俊男に見つめられ、ブランドンはひきつった笑いを見せた。 「タブンです。」 ブランドンがそう言うと、自分のコップにビールをつぎながら、すぐに父親が言葉をすべり込ませてきた。 「お前さん、籍は向こうなんだろ?あんまり滅多な事すると国際問題とかなるんじゃねェか?」 「スミマセン。」 父親の迫力に、ブランドンは彼の顔を見ないで謝った。こぽこぽと、コップの中で泡がはじける。 「おいおい、別に謝って欲しいんじゃねェんだ。おい、豆!」 「はいはい。」 突然何となく悔しくなり、ブランドンは顔を上げ、思い切って父親に話しかける。 「だいじょうぶ。ボクをひいたヒト、はなしした。デンワにリョウシンもはなしおわる。」 「……でもこのニュース、お前さんだろ。」 顔をテレビに向けながら父親がまじめな顔をしてそう言った。 「えっ!」 思わず、俊男とブランドンの声が合わさる。 『……の病院に入院しておりました外国人男性が、二日ほど前から行方不明になっています。』 「………おい。」 思わず俊男の顔が笑った様にひきつる。 『男性は新宿で交通事故に遭い、この病院で入院しておりましたが、えー…今から一週間ほど前にも病院を抜け出しており、警察では何らかの事件に関わっているのではないかと見ています。なお、男性はハーフであるとの情報もありますが、詳しい事はまだ解っておりません。……詳しい情報が入りしだい、またお伝えします。』 「おめぇ、病院抜け出して来たんか!」 「オ、イ…イッテキマスいったです。」 思わず高ぶって俊男が強く言うと、ブランドンは困った顔をしながらも大きく首を振る。 「あー、もしもし。」 「父ちゃん!」 父親はいつの間にか電話を取って、どこかにかけていた。 「おう、俺だ。新宿の事件ー…つうのか…?ん、知ってるか?……おー…それそれ。そいつ今家にいんだよ。」 ブランドンはごくりとつばを飲む。何か売られた様な気がしたのだ。 「……いや違ぇよ。うちの 自分が思っているのと何か話が違う様だ。ブランドンは張りつめていたものをあっさり切られた気がして、呆然と父親を見る。 「……おい、傷はふさがってるんだろ?」 「ハ、ハイ。」 急に声をかけられ、必要以上に大きな声で返事をしてしまった。 「今日はまァ泊まってって、明日は病院に 「ハイ。」 思わずそう言ってしまったが、何だかよく解らない。母親が台所からやってきて、ちゃぶ台に料理を机に置いていく。そして呆けているブランドンを安心させる様ににこりとほほえんだ。 「…おい、決まりだ。……病院に入ってるからって、そう傷の治りが早まる訳ねェだろう。」 父親はまだ電話でやりとりをしている。ブランドンはどうなっているのか、どうしたらいいのか解らなくて俊男の方を見ると、俊男はにやにやと笑っていた。 「いいんじゃない?お前さえよけりゃ、ゆっくりしてけよ。」 ブランドンが解ったのは、父親が、物凄い力の持ち主だという事だけだった。その後病院から警察から電話がかかってきたが、父親はあしらう様に解決している風に見えた。ただ一応大事をとり、ビールとお風呂はやめにする事となった。 ニュース速報が流れる。 病院から行方不明になっていた外国人男性発見。 |