「もし、手拭いを落としましたえ。」
 不意に声をかけられ、花月は後ろを振り向く。そこには、年若く世慣れしていない様な一人の女がいた。川の方から流れてくる風で、柳と共にその女の後れ毛が揺れる。だがぽかんと半開きになっている口元。まだまだ子供みたいな感じだ。きっと大事に大事に育てられているのだろう。
「へぇ、すいませんお嬢さん。」
 花月は軽く会釈をし、手拭いを受け取ろうとする。そして渡される時かすかに指先が触れ合い、爪先がチッと鳴った。うぶな少女はそれに驚いた様に手を引っ込めると、また手拭いが地面に落ちた。
「あ、すみません、すみません……。」
「大丈夫どす、こうやって払ってやれば……。」
 花月は振り袖の袂をつまみ、手拭いを拾い上げて軽く砂を払った。そして少女ににっこりとほほえむ。人当りのいいほほえみだ。少女はそのさりげない優雅な姿をどう見たのだろう。優しい春の花の香りがふわりと漂っていて雰囲気はとてもいい。それが上辺だとも知らないで、少女は安心した様に笑いを返す。
「貴方も上方衆ですか?」
「へぇ、元はそちらの方に住んでおりました。」
 花月がすっと立ってそう言うと、少女も立ち上がり、そっと直す様に着物の合わせ目に手を当てた。
「あたしは母が上方に住んでおりまして、それが移ったんです。」
「通りで、貴女はこちらの発音も混じってやすね。」
 花月はそう言って手拭いを懐にしまう。そして軽く後ろへ下がると、会釈をして行き過ぎようとした。
「あのっ…、お名前は……。」
「……それは、今度うた時にしましょう。」
 少女が引き止めるみたいな事を言うと、花月はちら、と少女の方を見、優しく笑ってじんわりとそれをかわした。そしてそれから彼はふらふらと病人の様に、さまようみたいに歩いていく。
 柳の河岸かしからもっと町中へ、誘われる様に人の多い所へ、いつの間にか彼は商店街を歩いていた。
「花月。」
 ふと呼び止められ、彼は振り向き、表情を明るい驚きに変えた。
「あれ、旦那。」
「どうしたんだ、こんな所まで出て。金剛こんごう…もいねェみたいだが……。」
 政常が花月の方を完全に向いてそう言うと花月はつつ、とすり足で政常の近くへ寄り添う。
「旦那、アタシだって、いつもこもっている訳じゃァありませんえ。」
 政常の耳元に唇を当ててはいないが、花月はささやく様に言葉を紡ぐ。どこか耳に残り、後を引くたるい$コは艶っぽいというか、色っぽい。
「……待ち合わせか?」
「違います。今のアタシは、旦那がうてくれはったアタシどす。」
 皮肉を言うみたいに政常が笑うと、花月は少しむっとした感じで答えた。そして政常から送られた振り袖をふわりと揺らした。
「そうか。…明日もちっと用があってな、店の方にはいけねェんだ。」
 政常は首の後ろをぽりぽりとかきながら、すまなそうに言うと、花月も少し寂しそうな表情をして残念がる。
「へぇ、そうどすか。」
 花月のその表情を少しの間政常は見つめ、それから目線を外して下唇を少し噛むと、思い付いた様に自分の懐に手を入れた。
「これを親方の方に渡してくんな。」
 そう言って政常が花月の手を握る。手の中には、決して少なくないお金があった。彼を、誰か他の客に当てるのを防ぐ為だろうか。花月の心の中に、何とも形容しがたい黒い霧がかかった。
「じゃ、今度、何処かいい所で桜でも見に行こうな。」
 政常がほほえみ、遠くから手を振ってそう言うと花月ははっと気付いてかすかに慌てる。
「また、ご贔屓に……。」
 花月は、深々と頭を下げ、政常にその日の別れを告げた。だが政常が来なかったのはその次の日だけではなかった。その次の日も、またその次の日も政常は来なかった。今まで一日と開けずに通ってきていたのに。そうなると彼の生活はずいぶん変わる。いや、ただ客が変わるだけにすぎない。彼は座方として舞台裏で働く事も、袖で定後見じょうこうけんもしない。親方も、最後の最後の稼ぎ時だとこき使った。演じる場は腕の中だと。
 美しい、華やかな舞台。そこに立ちたかった。だけど本当にそうなのか。そうだ。それは違う。舞台に立ちたいのではない。ただ歌い、踊り、演じるのが好きなだけだ。そうすれば、自分を忘れられた。演じている方が楽だった。自分ではない誰か。それになりきるのだ。そうすれば、自分を忘れられる。
 自分でない自分になりたかった。

 今日もまた花月という少年が呼ばれる。客が来たのだ。狭く暗い茶屋の二階の一室。布団と行燈あんどんと煙草盆以外は何もない。ただ、用を足すだけの場所。座る場所は布団の上だ。そこには、高枕が二つ並べられている。
「……何で、今まで来てくれへんかったんどす?」
「ああ、ちょっとな。」
 政常がやってきたのは五日ぶりだ。花月はむっとしながら彼を責める。だが政常はあいまいにそのセリフをにごした。理由を言わないのはいい、だがその態度が気に入らなかった。花月は黙って前に乗り出していた体を正して膝に手を当てた。
「………………。」
「花月。」
 たしなめる様に政常は花月の名前をささやくが、花月は軽く唇を突き出し、政常の方を向いていた体をいざって後ろに向けた。
「知りまへん。」
「花月、いつもの様に踊ってくれ。」
 政常は、花月を後ろから抱きしめた。そして首元に唇を付け、いやらしく、かき乱す様に胸をなで回す。体は正直な花月はうわずり、頬を上気させて足を崩した。体をしならせ、全てを政常に預けて甘える。
「……これで、踊れぇうてるんです?」
「ふふ、やっといつもの顔になったな。」
 ため息をつく様に笑いをもらすと、政常はさらに強く花月を抱きしめる。そして頭を肩に押し付けるみたいにもたれかけさせた。花月は子犬の様に鼻を鳴らす。
「………お前は、いつも嫌な顔をしている。誰も信じちゃねェ、寂しい目だ……。」
「……アタシの、どこがそうだとうんです。」
 政常から花月の表情は見えない為、花月はふと表情を甘えたものからすう、と変える。このまま抱きしめられていると、どんどん聞きたくない事を、聞かれたくない事を言われそうだと思ってか、体を揺り動かし、政常の腕を振りほどこうとする。だが政常は離れない。強い腕。緊張した硬い筋肉がゆるむ事はない。
「そうやって、抑えて演技して…気丈に真っ直ぐ立っている。演じて、踊っている方が自由に見える。哀れな、誰も愛してない……。」
「旦那、何を言うてるのかアタシには解りまへん。」
 声だけは甘いままそう言いながらも、花月は本格的に振りほどこうとして政常の腕をつかみ、体から引き剥がそうとする。しかし政常はさらに力を加えるだけだ。くっと強く締め付けられ、肺が圧迫されて一瞬気を失いかけた。そしてずるずると政常の体に寄りかかっていく。ほとんど、政常が仰向けの花月に覆いかぶさっている状態になった。
「お前の演技は、あまりにも美しい。……だからこそ、寂しい。」
「個人的な事は、御法度ごはっとですえ。」
 花月は肩で息をしながら、強がりではなく瞳をしっかりとさせ、政常を仰ぐ。政常も、花月を真っ直ぐ見つめた。不意に、行燈の炎がジジ、と音をたてる。
「お前の名前は何という?」
「旦那……。」
 花月は体をよじり、眉を寄せ瞳を閉じて、聞かない素振りを見せる。そのまま花月は頭を政常の膝から外し、半分体を起こし始めた。政常は、着崩れて見える花月のうなじから背骨をはわせる様に視線を向ける。
「お前は何処から来た。」
「旦那!もうやめて下しゃんせ!」
 花月は拳を作って床に付け、背中でそう叫んだ。政常は軽く首をかしげて花月の背中を見回す。
「……お前が心配なンだ。そして何もかも、知りたい。」
 その時、花月の肩がびくりと揺れた。そしてゆっくり政常の方を見る。今まで、見せた事のなかった表情、初めて見せる瞳。泣きそうに彼は眉をひそめ、頬をひきつらせていた。
「旦那、アタシは名も故郷さともない、卑夫ひふどす。根無し草どす。うちの何が知りたい言わはるんや!」
 本当の、花月ではない、ここにいる者を見た気がした。だが政常はすぐ後悔する。個人的な事は御法度だ。いや、そうではない。遊びの規則≠ニいうのではない。それよりもっと。もっと。ずっと……。
「……悪かった。そんな目で見ないでくれ。」
 政常は正直に謝った。花月の過去は、自分などには決して解らない、計り知れないものだと思い知ったのだ。そうだ、そうなのだ。好きでこんな事をする奴などまずいない。特に花月は、体のすぐぴったり内側で何を思っているか……。
「…アタシこそ、そんな風に言わはれたら……。」
 謝るとすぐ、花月は表情をいつもの≠烽フに変える。政常は彼が逃げないようにか、ゆっくり近付き、そしてふれた。どうしてこう、引かれてしまうのだろう。心の内で、何を考えているのか解らない奴なのに。花月は頬をふれられると軽く瞳を閉じ、あからさまに無防備になった。
「……俺はお前にいかれちまってんだ。花月。お前が誰かのもンになる事を考えると、俺は本当にどうにかなっちまう。」
 政常はしがみつくみたいに花月を抱く。花月は、ゆっくり腕を天井に持ってゆき、支える様に政常の頭にふれて、からめてゆく。
「アタシは……アタシは………。ああ、旦那ァ……。」
 その次の言葉を言わせない為にか、政常は丹念に、執拗に花月を責め苛んだ。普段よりずっとじらされ、意地悪されて、花月の若い体はどうしたらいいかひどく泣いた。そして石ころの様に乱暴に扱われ、内蔵がえぐられる。愛しさ故か、それともそれ以上の強烈な憎らしさからか、政常は何度も、激しく、形を変えて突き立てる。花月は、もうやめて下さいと言わんばかりに叫び、嗚咽をもらし、あえぎ、よがり声を引き絞る。爪を立て、噛み付き、泣きながら、苦しみながらしかし、政常を挑発し、誘い、体を開く。
 貪欲に。ただひたすら貪欲に。
 自分でない自分になりたがっている花月は、これは自分ではないと言い聞かせた。政常が望むだけの自分。自分でない自分になりたがった自分のくせに、この自分だけは認めたくなかった。認めたくなかったが、政常の指先はずっと器用で新しい自分を作ってゆく。自分の知らない自分を。
 自分の知らない感覚、感触を、政常はしつこいくらいにじっとりと教えてくる。他の男達とは扱いが違う。こんなに奉仕される事も、乱暴にされる事も、心乱される事も初めてだ。いや、そう思いたくない。ただ演じているだけだと信じたい。
 花月はまた泣いた。流れいでたそのしずくが、悦に達した時のものか、それともそれとは違うものかは誰にも解らない。政常は滴を払ってやると、悲痛な面持ちで強く花月を抱きしめた。
 ――――大切にしたいくせに、どうしていたぶりたいなどと思うのだろう。…知れている。これが演技だと解っているからだ。ひとかけらも愛していないくせに、甘え、体をゆだねてくる。下手に思い通りに出来るだけ、たまらなく悔しいのだ。
 思えば汚い事。今は花月としかこんな事はしたくない。花月だと、欲しくなる。
 こんな思いをするくらいなら……。思いながら、政常は矛盾する行動を続ける。繋ぎ止められるのは、ここにあるのは彼の体だけなのだ。
 政常は、そういう男だった。



定後見:若い俳優が修行の為に舞台の袖に座り、芝居を見るという稽古。
金剛:陰間を管理し、監視した男の付き人。



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